頭のはたらき・メンタルによかったこと

転職して3年弱、自分で「やりきった」という手応えを感じる仕事ができていない。ふとしたときに頭の中で「成果を出さなくては」「休んだほうがいい」とせめぎ合いが始まり、疲れてしまうことが多くなった。

任期付き職員なので、何年後かには次の職を探さなくてはならない、というプレッシャーがある。またその背後には、「能力の得手不得手の差が激しく、就く職業によっては業務内容が苦痛にもなり得る」という自覚が潜んでいる。

ただ本当のところ、成果を出さなければ自分で自分を認められない、それ自体が辛いのだという気がする。「仕事だけが人生ではない」口で言うのは簡単だが、そう割り切れるものではない。

それに、恥ずかしい話だが異性から認めてもらいたい、という焦りもある。職場じゃなく他の場所でパートナーを見つければよい話だ、とは思う。しかし果たして、これほど仕事に打ち込んでいるのに成果を出せない者を、誰が好んで一生連れ添ってくれるのだろうか。

と、集中力が切れるとあらゆるときにこうした思考が忍び寄ってくる(特に休日)ので、「成果を出す」以外のところからメンタルを改善する必要性を感じたわけだ。そのメモを残しておく。

よく寝る

以前こちらの記事で睡眠不足が自分にとって如何に危険だったか、を書いた。

tawashan.hatenablog.com

しかし転職して成果を出そうと焦るあまり、つい仕事や読書で夜ふかしが続くようになってきていた。「なんかヤバいな」と思ったのは、上の記事に書いたとおり、他人とのコミュニケーションが取れなくなってきたり、午前中から何をするのも億劫な気がしたり、といった日が続いたのがきっかけ。以前とは違い、破綻する前に気づけたことについては、自分でも最低限の成長をしていると褒めてやりたい。

で、寝るための方法。周りの人や著名人の睡眠時間を聞いてみた上で、「こんなスゴい人でさえ7時間寝ている。6時間の自分に何ができるというのか」と自覚すること。正直、ずっとこれでうまくいくかどうかは自信がないけれど、まあ2週間程度は続いている。

HIIT(High Intensity Interval Training)

全力に近いような強い運動と、休憩を交互に行う運動だ。もともと運動が抑うつや認知力に好影響をおよぼすことはいくつかの書籍から知っていた*1*2

いまでも、健康への効果を期待したときの歩数8000歩*3は通勤日であればクリアしていることが多い。ただ、それだけではどうも頭がボーッとする気がするので、強度の高い運動を増やす必要を感じていた。

問題は、いつどの程度の時間を費やすかだ。本音を言うと毎日30分程度ランニングをすることが理想だが、これまで着替えを面倒くさがったり、雨を理由にサボったりと続いた試しがない。しかも僕は、筋トレとかランニングといった単調な運動では、音楽を聞いたとしても集中力がもたない(複雑でかつ自己表現もできるダンスは頭も使ってクタクタになるけれどめちゃくちゃ楽しかった)。

というわけで、5分で脂肪燃焼に効果があるらしい*4、そして室内でも行えるHIITを選んだ。本来の目的はメンタルと認知力の改善だが、続かなかったら意味がない。この際天気や準備に左右されず、かつ何かしらの付加効果もついてくるなどモチベーションを維持できることが大事だ。

ペースとしては2日に1回を絶やさず、3週間程度やっているが、そこそこの効果はあるように思う。メンタルに関して、仕事でストレスがあったときも「それがナンボのもんじゃい」と強気でいられる気がするし、同僚との会話でもやや言葉が出てきやすくなっているように感じる。

ただ注意すべきは、21時以降にやると、就寝時に心臓がバクバクして眠れなくなることだ。ちなみに眠気はちゃんとあるので、身体の別の部分のはたらきが競合し合っているのではないだろうか。

活動計画表

*5*6

あらかじめ時間ごとに活動を決めておき、それぞれの活動の快楽、あるいはやりがいを%で予想しておく。活動後、実際の快楽orやりがいを記す。ある活動が自分にとって有益なのか、そうでないのか、を分析するための手法だ。

やってみると、ひとりで博物館・美術館を訪ねたり本を読んだりする時間でかなりの快楽を得ているのに気づく。また、めんどくさくて仕方ないと思っていた掃除や料理にもそこそこのやりがいを感じられるということも分かる。

意外だったのは、書店で買う本を迷っている時間の快楽度が低かったこと。逆に、目的(お目当ての本の下見)があって訪れた際は快楽度が高くなる。また、同じ「カフェで読書」でも、SNSをチラ見しながらでは著しく快楽度が低くなっていた。総じて、ネットサーフィンや書店でのブックサーフィン?など、「迷う」「目的のない」「集中していない」時間の快楽・やりがいは低かった。

ただ、その本質は「自分の行動をコントロールできていない」ことへの不満ではないだろうか。記録する前の話だが、「この時間は買う本を迷う」「ネットサーフィンをする」「何もしない」と決めておいたときは、わりと満足できていた気がする。「やめなければ」と思いつつズルズルと惰性でやるというのは心を消耗させる過ごし方なのだ。たぶん。

こうして何が自分にとって快楽・やりがいなどの幸福を感じさせる(失わせる)行動なのか、を数値化すると自分自身が理解できてくる。例えば自分は活動がもたらす幸福をあまり予想できていないことや、ネットサーフィンやマルチタスクは思ったよりも自分を不幸にしているということだ。この自覚は、イヤイヤではなく、幸福をもたらす行動を自然に増やすためのモチベーションになる。

実際、ここ1週間はそれほど思い悩むこともなく過ごすことができた。ただ、その期間には気温が上がったり運動したりと他の要因にも変化が起こっている。計画表の効果をより明らかにするためにも、当分は続けていきたい。

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上の効果については途中で小出ししてきたが、思わぬ効果としては、家を掃除できるようになったというものがある。空き缶や毛、ホコリが目につくのだ。ある休日に一気にキレイにしたが、目に入るものが少なくなると気分も落ち着いてくる。

仕事でも、あまり頭を使わないはずの事務仕事に費やす時間が減った気がする。というか、何をしていいか分からないほど疲れる前に一度離脱し、休憩して全体を眺めなおせるようになった。つまり、俯瞰して優先付けをする能力が上がったらしい。事務仕事の能率はあまり視覚化できていないが、家の汚さと同レベルのことが仕事でも生じていたと思うとおそろしい…。

久しぶりに生活改善がうまくいっているので、ぜひともこの流れを続けたい。それと並行して、「成果を上げなきゃ人に好かれない、人に好かれなければ孤独で不幸になる」という思考を少しずつ修正していこう。

失ってなかった。 〜嫌われることへの不安とネット依存〜

以前書いたこの記事

tawashan.hatenablog.com

だけど、ここ数日間は相手からもこちらからも互いに話しかけ、楽しく会話することができた。これまで何度も、人に嫌われないかと心配した挙げ句、全くの杞憂だったということがある。それにも関わらず毎回不安になるのはなぜだろうか。

一見、過去に「人に嫌われないか心配になったとき、実際には嫌われていなかった」という経験を繰り返すほど、「次に人に嫌われる確率は低いのだから心配する必要はないはずだ」と考えそうなものである。実際、認知行動療法をする場合に自動思考(一次的な思考)に対する反論をするならば、このように書くと思う。ところが、他人から冷たい(とも受け取れる)態度があった場合には、毎回一発目の自動思考のレベルからその不安が消えることはなく、なんとか心を平静に保ちたいという葛藤が始まる。これは、「本当に嫌われる確率」ではなく「嫌われる不安への対処」のまずさが原因なのだろうと思う。

マインドフルネス認知療法においては、一般的な問題解決を行う際の心の動きを「すること」モードと呼び、心が「いま、そこ」にあって何かを変えようと意図しない状態である「あること」モードと区別する。「すること」モードでは思考した内容を現実のこととして認知することで問題解決の遂行を助けるが、これは感情的な問題には役立たないとされる。不安に対しああでもないこうでもないと否定することで、余計にその架空の物事へ引きずり込まれてしまった経験のある人もいるだろう。

「すること」モードによる否定の他に不安を悪化させるのは、不安を解消する真の効果はないが短期的には快楽を得られる、ニセの対処法に頼ることだ。僕の場合で言えば、嫌われないか心配で仕方なくなった夜はたいてい、ネットサーフィンを1−2時間してしまう。クリックし続ける間、不安が心から消えた気になるが、ふとまた首をもたげてきてクリックを続ける、というサイクルを繰り返し、終わった頃には疲労と罪悪感が残る。

では正しい「嫌われる不安への対処」を実行し、一発目の自動思考から不安を消し去るにはどうしたらよいかと言えば、認知行動療法やマインドフルネスなどで自分の自動思考を修正したり、客観視できるように何度も訓練するしかないのだろう。ともあれ、それとは別に「自分は嫌われやすい人間ではない」という自信は持ってもよいのだろう。そして、淡々とミスを減らす対策を行っていこう。

また一人、失う。

今日もまたミスをした。というより、他の人に助けてもらって未然に防いだと言うのが正しい。最近は、信頼できる同僚であり友人であった人からの視線が冷たいような気がする。そして、ミスをすること自体よりもそちらを気にしている自分に、嫌気が差す。

今回の現場は、ある仕事をしているときに側で話しかけられ、また別の方向から優先度の高い仕事を振られ、となったときだった。自分のキャパシティが小さいことは重々承知なので、それぞれの人にちょっと待って、とストップさせながら一つずつこなしていこうとはしている。それでも、どうしようもない。今そこにあるミスに気づくことができない。または、あたふたしている間に先に他の人に気づかれ、指摘を受けることになる。結局自分のミスを減らしてもらっていることにはなるので、救いと言えば救いなのかもしれない。

本当にひどいのはここからで、普段は意識には上げていない心の声が口に出ていたのだった。「おもしろくない…」と。他の人に聴こえていたかはわからない。自分でもゾッとする話だが、失敗をした人が同日にこんなことを口走っていたら、人格を疑われさえするかもしれない。とここまで書いて、やはり、僕は仕事のクオリティよりも他人からの印象を気にしているのだ、と嫌でも自覚させられる。

ここ1週間くらいはそんなことが続き、僕に対してずっと好意的だった同僚の顔が強張り、また話しかけてくる頻度が少なくなったようにも感じる。僕がどこのコミュニティで人間関係を作るときにも、まず人と仲良くなり、しかし会話のまずさやミスの多さからギクシャクしたり嫌われ、その後技量の向上と人格の理解からまた仲良くなる、という経過を辿る。しかし、最初から中長期的に仲が良くて、途中から幻滅されるパターンはそう多くないだけに、今回は胸が痛い。

失敗をしようが嫌われようが、自分なりに少しずつ改善していくしかない、していけば状況は良くなってくる、とは経験で分かっている。それでも、今日は帰ってから信頼を失う恐怖ばかり頭を離れず、床の上で逃げるようにネットサーフィンをしてしまい、それでまた自己嫌悪に陥る、というループにはまり込んでしまった。もうこんなマネはしたくないが、それもまた自分の現実と認めて、明日もやっていくしかないのだ。

いまを生きていくためのヒーロー映画:『アベンジャーズ/エンドゲーム』

 今さらすぎるけど、途中で完成させるのを忘れてたレビューを上げておく。

GW中、我慢しきれずに観に行った『アベンジャーズ/エンドゲーム』。MCUが一区切りする今作では、ここにきて、ヒーローとは何かとくと見よ!と言わんばかりにヒーローらしい姿が描かれる。少なくとも僕は、エンタメとしてのヒーロー映画を観るとき、どうしても日頃の鬱憤が晴れるような爽快感を期待する。本作はまさにそれを満たしてくれた。

 

『インフィニティ・ウォー』を観たとき感じたのは、サノスに対して犠牲を払えないヒーローたちが敗れるなら、それこそが完結編でサノスに対して勝つ理由になってほしい、ということだった。その願望が十分満たされたかと言えばやや不満なのだが、ここではさておき本作が呈示するヒーロー像とは何か、どう描かれているのか、といった点について語っていきたい。

『エンドゲーム』においてヒーローのヒーローたる所以が描かれている、その肝はなんと言っても会話劇、人間ドラマである。『インフィニティ・ウォー』では、始まってから終わるまでずっとサノスとヒーローがラウンドを変えて戦っていた。それと比べると、本作でアクションが占める割合はそう多くなく、むしろ人間ドラマに主軸が置かれている。台詞が多い分名台詞も多く、見返すとしたらインフィニティ・ウォーよりも僕はコチラ派だ。

特徴的なのは、全編を包むユーモアである。よくもまあこれだけのジョークを矢継ぎ早に入れることができたものだ。『エンドゲーム』を観ると分かってくるのは、前作の結末や予告編を知っている者からすると驚くほど笑えるということである。特に、これまで堅物と言ってよいキャプテン・アメリカが、これほどジョークに活躍するとは思わなかった。『シビル・ウォー』を彷彿させるエレベーターの緊張感を「ハイル・ヒドラ」で切り抜け、姿を変えたロキに間違えられ、倒した相手に「これがアメリカのケツか」と呟くシークエンスは筆者ならずとも劇場中の笑いを誘った。

こうしたユーモアは観客を笑わせるためだけのサービスだろうか?決してそうではない。絶望に満ちた世界を舞台にしながらも、ドラマに観客を引き込むことに役立っているのだ。なにせ、前作でサノスが指パッチンして、ヒーローを含めた全生命の半分が消滅したところから本作は始まるのだ。もし、そのまま辛気臭いお通夜ムードを何時間も見せられたら観客はたまったものではないだろう。

笑いと会話で大いに尺をとった会話劇の中で、製作者は「ヒーローとは何か」という描写を多面的に積み上げていく。まず序盤では、ヒーローたちが挫折し、苦しむ姿がそれぞれに描かれる。象徴的なのは、ホークアイだ。彼は、家族を失いギャングたちを成敗して回る復讐(というより当てつけ?)の鬼、ローニンと化してしまう。ナターシャが沈痛な面持ちになるのももっともだ。

一番の衝撃は、アベンジャーズ=復讐者による復讐が明確に否定されるところである。生き残ったヒーローたちは最強の新参、キャプテン・マーベルを仲間に加え、優雅に農夫として暮らすサノスを急襲する。このシーンにおける彼らの描写は、悪役そのものだ。これはもちろん意図された演出だろう。

ラスボスには不釣り合いに家庭的な小屋へ、突入してくるや問答無用でサノスを締め上げるキャプテン・マーベル、引き続き床を破って這い上がってくるハルク・バスター、そして、悪の司令官とその副官よろしく制圧が終わった室内へドスドスと入ってくるキャプテン・アメリカとブラック・ウィドウ。極めつけは、インフィニティ・ストーンがサノスによって失われたと判明した後に、必要もなくサノスの首を落とすソー。相手は自分の大切なものを奪った不倶戴天の敵とはいえ、怒りに任せて復讐をする彼らの姿に、我々は衝撃を受ける。

「アベンジ」は摂理による制裁だとすると、同じ復讐という日本語訳がある「リベンジ」は私怨によるものといったニュアンスが強いらしい。『ソー バトルロイヤル』ではソーたちはリベンジャーズなる同盟を結成していたが、少なくとも本作ではアベンジャーズがリベンジャーズになるのは、恐ろしいこと、醜いこと、あってはならないことなのである。

ホークアイの他に"堕ちたヒーロー"として強い印象を残すのがソーだ。先に述べたように、彼はサノスを亡き者にすることでヒーローの座から滑り落ちてしまった。それから5年後、彼の居場所を訪ねた盟友のブルース・バナー(ハルク)とロケットが見たものは、やけ酒をあおり、飛び出た腹をたくわえてネトゲに興ずる引きこもりの神と化したソーの姿であった。彼をどん底へ突き落としたのは、王としての責任感だった。『ソー バトルロイヤル』で崩壊したアズガルドから民を率いて脱出したソーは、前作の冒頭で民を半分の命をサノスに奪われてしまう。最強とも言える肉体を持ちながらも、民を守れなかったという自責の念によって、彼の心はもろく砕け散っていた。

本作の真骨頂はここからである。こうしてヒーローたちが"堕ちた"姿を存分に示しておき、どん底からの再起を描くことで、ヒーローが再度ヒーローになる姿を描いていく。過去の世界に足を踏み入れたトニー・スタークやスティーブ・ロジャースは自分のオリジンと対面するシーンは、ヒーローが最初のように蘇る、輪廻転生を思い起こさせる。

さて、話を、「堕ちた神」ソーへと戻そう。の場合、彼を立ち直らせたのは、過去の世界で出会った母の言葉だった。ソーの母は、傷心のソーにこう語りかける。「大事なのは、自分を受け入れること。未来は辛かった?なりたかった自分になりなさい。」一見、理想の自分になれないのを認めることと、それでも理想を追い求めることは矛盾に聞こえる。しかし、それは両立できる。自堕落で、デブになっても、弱くなっても、それを受け入れた上で、神であり王であるという理想へ自分を方向づけることはできるのだ。

「ヒーローとは何か」という問いに一つの答えが出た。本作が示すヒーロー像とは、厳しい現実を受け入れ、前を向いて歩き出す者である。それはサノスとの戦いではなく、本質的には自分自身との戦いとなる。このテーマは、我々一般人も日々体験しているものだ。明日がどうなるかわからないなか、失敗や理不尽に耐え、それでも前に進まざるを得ない。『エンドゲーム』のヒーロー達は、壮大なストーリーに反してじつに共感できるヤツラなのだ。

アイアンマンやソーと言ったいかにもヒーロー然としたヒーローに喝を入れるのが、アントマンやロケットといった普段飄々とした面々なのもよい。ヒーローにも色々な在り方がある。辛い局面を笑いで乗り切る彼らが垣間見せるマジな顔、そのギャップもまたカッコいい。というか、完全に文脈を離れるけれど、前作に出ていないアントマンが、笑いに、シリアスに、さらにヒーローとしても、冒頭からクライマックスまで活躍し続けるのはファンとしては嬉しい限り。

さて、もう一つ触れておきたいのは、時間の扱い方だ。本作では、時間を遡って過去に影響を及ぼしても、それで現在が変わるわけではない。結果が変わった現在と変わらなかった現在、という2つの時間軸に分岐してしまうだけである。となると、過去のサノスをヒーローを集めて最高のコンディションで倒したとしても、今いる自分の世界がよくなることにはならない。亡くなった大切な人は、戻ってこない。

こうした多世界解釈は知られてきているが、過去は変えられないという性質はこの作品のテーマによく合っていると思う。先述した通り、「自己を受け入れる」ことは「それまでの過去を受け入れる」ことでもある。僕たちが自己を受け入れるのが難しい理由の一つは、過去を変えられないからだ。起こした過ちは、取り消すことはできない。しかし、本作のヒーロー達は、5年経ってしまったところから、未来を切り開いてみせる。こうした設定や展開からは、「過去は変えられない。だから現在に目を向けろ」というメッセージが放たれているように、僕には思える。

総括すると、『エンドゲーム』は長きにわたるMCUの歴史に一度区切りをつける娯楽大作でありながら、ヒーローの内面にも目を向け、我々一般人が日常を生きていくのに必要なエネルギーを与えてくれるような作品となっている。今後もMCUには、ヒーローがきわめて特殊な苦難と向き合うのではなく、僕たちの日常と地続きのような、パーソナルな問題を乗り越えていく、そんなヒーロー達を描いていってほしいと願う。

夜道にて

GWもあと2日で終わるという中、近くの居酒屋で呑む。

今日は勉強をしようと思っていたのに、朝から、文章がうまいと思うブログの分析を始めてしまい、結局8時間も費やしてしまった。分析するというのはよく言ったもので、実際のところはネットサーフィンと大差なくエントリ間を飛び回って、ここがいいあれがいいと考えているだけのことである。

以前と思えば、こういう非生産的な、目に見えたアウトプットや勉強をすることがない日の罪悪感は減った気がする。それがいいことなのか、悪いことなのかはわからない。

自分の進んでいる道が良いのか悪いのか、というのは一人で住んでいると頻繁に遭遇する問題だ。一人で暮らすようになって以来、特に認知療法を初めて以来、誰も話す人がいないということもあり考え事をする時間が増えた。それは、より善く生きるためにはどうすればいいかという倫理的なトピックの場合もあるし、なぜ自分はこの映画が好きなのか、という他愛もないトピックの場合もある。いずれにせよ、長い時間を考え事に費やすと、自分の精神が変容していくのを感じる。わからないのは、その是非だ。変容するのは成長なのか、あるいは異常性を増しているだけなのか。

困ったことに、変容すればするほど、周りとのコミュニケーションがうまくいかなくなる気がするのである。同じ業界や職場の人とは以前から話が合っていたわけではないが、以前から気の合っていた友人や仲間ともそうなってしまうのが怖い。

学生の頃は、なんだかんだで気の合う友人と月に1回は顔を合わせ、言葉を交わす時間があった。現在、彼ら・彼女らはほぼ全員結婚し、子供もいる。数年前のような頻度で会話はできなくなっている。その分会話する度の喜びは大きなものになるのだが、いつか、話が噛み合わなくなり、誰とも通じ合えなくなるという恐怖に怯えている。

とはいえ、現在はまだ、仕事を除いて他人とのコミュニケーションに困ることはない。居酒屋で自分からライフスタイルやパーソナリティが離れているだろうな、という人がいても、たいていは話を合わせることはできる。ただし、心が通じたと思えることはない。言葉が互いの表層を行き交っているだけのことだ。こんなことに悩むくらいなら、ありとあらゆる人の文化背景も考え方も違うような、多民族国家に移住すればいいのだろうか、とも思えてくる。

居酒屋を出て歩き、コンビニに立ち寄って、高くもなく、一番安いわけでもないプリンを買う。すれ違う飲み会帰りの人々に比べ、自分はなんとみすぼらしい格好をしているのだろうかという考えが頭をよぎるも、それは体型の問題だ、と打ち消す。自分も、そんなふうに大声で笑って、爽やかに生きれたらよいだろうけど、当面それはできそうにない。

コンビニを出て人通りの少ない道に入ると、脇の家から賑やかな笑い声やテレビの音が流れてくる。ガラス戸一枚隔てて、自分とは全く違う人生、生活が息づいているのを感じる。

家の前の通りには、ずっと向こうまで、街灯に照らされた道が続いている。歩いている者はいない。今度は誰の息遣いも聞こえず、自分だけがこの世界に一人存在しているかのような気持ちにとらわれる。もちろんそんなことは気の所為で、明日になれば子供たちが道路を走り回り、明後日にはまた仕事が始まるのだ。

明日はどうしようか。本当なら勉強をした方がよいのだろうが、また戦場に戻る前に休息を取ろう。今度は、なんとなく何もしないのではなく、休むと決めて休もう。余計なことも考えずに。

つながりを得られる場所を探して

仕事場で、ふと周りに目をやり、ため息を漏らす。この仕事を初めて以来、朝から晩まで他人と狭い空間に詰め込まれ、常にコミュニケーションを強いられている。疲れの溜まり方は段違いだし、いつも息が詰まるような気さえする。

今の職場に来るまでは、人と同じ空間にいるとはいえ会話の必要はなく、皆思い思いに動き回っているような環境だった。それと比べると、まず単純に人口密度が高い。すると、動きが交差する頻度も高くなるので、立っているだけで邪魔にならないか気を配らなければならない。それだけでなく、どうしても他人の動きが視界に入ってきて集中力が削がれる。

いちばん困るのは、作業を共有しなくてはいけないことだ。断っておくと、各人に割り振られた仕事を持ち寄ってミーティングし、すり合わせをする、というように他者とコラボレートするのは嫌いじゃない。ゆるい作業の共有には、自分の意思が入り込む余地がある。その一方で、現在の職場のようにリアルタイムで作業を共有する場合には、結果が出せば許されるわけじゃなく、プロセスまで共有される必要がある。それを規制する決まりが法律だけならよいけれど、会社独自のルール、部署独自のルール、個々人のルール…と、ある。そのうち、結果を出すために絶対的に守る必要のある決まりというのは、多くはない。むしろ、一つの文化としてなんとなく決まっているのだ。そして、こういう必然性のない決まりほどやる気を削ぐものはない。僕は「結果を出せばプロセスはどうあれ認められる」世界を去る決心をしたのだから、文句はいえないのだけれど。

ここで自分の性質に目を向けると、僕はマルチタスクが苦手である。一つのことに集中して、飽きたらまた別のことに集中して、というのが好きだ。だから、上のように作業をリアルタイムで他人と共有して、仕事を進めなくちゃならない環境では、とても疲れる。のめり込めば周りとの連携が取れなくなるし、他人に気を配れば手元の仕事がおぼつかなくなる。いつまで経ってもギアが上がらない。その疲労が貯まってくるとミスも増えてくる。…という悪循環になる。

そんな状態で余裕がなく、また他人に目を向けるのが億劫なものだから、狭い空間でいつも自分に他人の感情が流れ込んでくるような環境や、言葉を介さずわかるよね?といったテキパキ、ツーカーが求められる環境は正直言って勘弁してもらいたいとも思っている。打ち合わせするように、目的と理由、手段と要望を口で言え、と思ってしまう。

とはいえ(都合のいいことに)、こんな僕でも、相手へ完全に意図が伝わったときは嬉しい。自分のやりたいことを相手が把握してお膳立てしてくれるときや、逆に相手の意図が手に取るように分かり、効果的なヘルプを出せるときには、ツーカーっていいよな、とも思ってしまう。

きっと、普段「他人はどうせ自分を理解できないだろう、それならひとりがいい」と思っている自分は、本当はひとりがよいのではなく、つながりがほしいだけで、そうでなければただ疲れるからひとりの方を選んでいるのだと思う。

現在の職場にいるとつながりが得られない、と特に感じるのは、仕事のスピード感に起因する問題なのだろう。腰を落ち着けてやるミーティングでは、言葉だけでなく文字や図を使って自分の意思を伝える方法がある。ところが、リアルタイムで動く仕事では、自然、言葉を省いて一を聞いて十を知るというコミュニケーションになりがちだ。そして、他人を見る余裕がない人は、言外の情報を補うことができない。長く同じ職場、同じメンバーと働いていれば少しずつ改善してくるものではあるのだけれど…。

共同作業が必要な環境に身を置くのは、確かに、自分の苦手なスキルを伸ばすという意味では僕には有意義な経験だった。しかし、「そろそろもういいだろう、自分に合った環境を、居場所を、見つけたい」と思わずにはいられない。いつかそういう場所に身をおければいい。いや、身をおければいいなんて他人まかせの言葉じゃなく、身をおくんだ、と書いておこう。

人の心を読みすぎる人

働き始めてから、人の心を読みすぎる人、というのは案外多いんだなあと感じるようになった。「読みすぎる」というのは「読めすぎている」のとは違う。ありもしない心を読もうとするのである。それを極めたところでは、以前の職場で、「人のやりたいことを先読みしてやってあげることが好き」という人がいた。自分のことに一杯一杯で周りの様子が見えていない僕からすれば、なんて優しい人なんだろうと思う。

ところが、人の心は完全に読めるわけではない。人は、行動から相手の心=意図を読み、その事例を蓄積して意図と行動のパターン=性格を自分の中に印象作る。問題は、まず行動から意図を正確に読めるわけではないということ、そしてその理由の一つでもあるのだが、行動と意図は一対一対応ではなく、人によってヴァリエーションがあるということだ。それを踏まえると、多種多少な顧客をターゲットにするサービス業であれば、多くの人の思考回路に沿って相手の考えていることを読む、というのは正しい戦略だろうと思う。とはいえ、多数派の公式が当てはまらない人に当たるケースは少なからず存在するはずだ。

困ったことに、そういったとき、人の要望を先回りしてやってあげたいと考えている人たちは結構な割合で"怒る"のである。僕なんかは、目的が決まったら視野が狭まって猪突猛進もするし、笑いや怒りのツボも人と違うので、心を読みづらいことこの上ないのだろう。彼らのお叱りをまともに喰らうこともしばしばだ。

例えば、書類をふと置いておくと、勝手に印鑑を捺すものだと思った彼らに処理されてしまう。もちろん目を離す僕も悪いのだが、放っておいたものを指示されていると思って取っていかなくても、と思う。

特に彼らを苛立たせるのは、彼らができることを僕が自身でやってしまうことらしい。例えば、宛先・封筒のサイズ・中身が全て違う書類を郵送するとき、いちいち指示するのはとても面倒くさい。全て揃えて自分でやってしまった方が、時間も手間もかからない。それを「私がやるので置いといてください」と苛立ち気味に言われる。

その度僕は、「あれ?僕がやりたいことをやってくれるんじゃないの?」と、不思議に思う。僕が彼らにやってほしいことは、何もしないことである、ということもあるのだ。だから、その度、行動の意図を説明する。「ありがとう、しかし僕はこうしたいからこう動いているんだ、もしあなたにやってもらいたいことがあれば指示する」と。

しかし、彼らはそれで納得しない。いかにも不服そうである。こういうことが何回も続くので、僕も「他の人がどう考えているときにどう行動すると彼らが考えるか」を逆算して行動するようになる。これはたいへんに疲れる。相手は少なくとも主観的には親切にしてくれているはずが、逆に縛られている気分になってくる。

彼らは、場所や相手によってはテキパキとした"デキる"人なんだろう。仕事を奪わないで、という問題でもあるのだと思う。それにしても、違う思考回路の人を想定しないやり方は、長い目で見てサービス業としても良くないんじゃないだろうか*1。僕みたいな人や、もっとぶっ飛んだ人がもし顧客だったら、その人を切り捨てることになりはしないか?と、ふと不安になるのである。

*1:本来僕のような同業者への対応と顧客対応は別であるべきと思うが、実際僕の周囲の人たちはあまりその区別がついていないようで、同じ方法論のコミュニケーションを取ろうとしているように見える。