いまを生きていくためのヒーロー映画:『アベンジャーズ/エンドゲーム』

 今さらすぎるけど、途中で完成させるのを忘れてたレビューを上げておく。

GW中、我慢しきれずに観に行った『アベンジャーズ/エンドゲーム』。MCUが一区切りする今作では、ここにきて、ヒーローとは何かとくと見よ!と言わんばかりにヒーローらしい姿が描かれる。少なくとも僕は、エンタメとしてのヒーロー映画を観るとき、どうしても日頃の鬱憤が晴れるような爽快感を期待する。本作はまさにそれを満たしてくれた。

 

『インフィニティ・ウォー』を観たとき感じたのは、サノスに対して犠牲を払えないヒーローたちが敗れるなら、それこそが完結編でサノスに対して勝つ理由になってほしい、ということだった。その願望が十分満たされたかと言えばやや不満なのだが、ここではさておき本作が呈示するヒーロー像とは何か、どう描かれているのか、といった点について語っていきたい。

『エンドゲーム』においてヒーローのヒーローたる所以が描かれている、その肝はなんと言っても会話劇、人間ドラマである。『インフィニティ・ウォー』では、始まってから終わるまでずっとサノスとヒーローがラウンドを変えて戦っていた。それと比べると、本作でアクションが占める割合はそう多くなく、むしろ人間ドラマに主軸が置かれている。台詞が多い分名台詞も多く、見返すとしたらインフィニティ・ウォーよりも僕はコチラ派だ。

特徴的なのは、全編を包むユーモアである。よくもまあこれだけのジョークを矢継ぎ早に入れることができたものだ。『エンドゲーム』を観ると分かってくるのは、前作の結末や予告編を知っている者からすると驚くほど笑えるということである。特に、これまで堅物と言ってよいキャプテン・アメリカが、これほどジョークに活躍するとは思わなかった。『シビル・ウォー』を彷彿させるエレベーターの緊張感を「ハイル・ヒドラ」で切り抜け、姿を変えたロキに間違えられ、倒した相手に「これがアメリカのケツか」と呟くシークエンスは筆者ならずとも劇場中の笑いを誘った。

こうしたユーモアは観客を笑わせるためだけのサービスだろうか?決してそうではない。絶望に満ちた世界を舞台にしながらも、ドラマに観客を引き込むことに役立っているのだ。なにせ、前作でサノスが指パッチンして、ヒーローを含めた全生命の半分が消滅したところから本作は始まるのだ。もし、そのまま辛気臭いお通夜ムードを何時間も見せられたら観客はたまったものではないだろう。

笑いと会話で大いに尺をとった会話劇の中で、製作者は「ヒーローとは何か」という描写を多面的に積み上げていく。まず序盤では、ヒーローたちが挫折し、苦しむ姿がそれぞれに描かれる。象徴的なのは、ホークアイだ。彼は、家族を失いギャングたちを成敗して回る復讐(というより当てつけ?)の鬼、ローニンと化してしまう。ナターシャが沈痛な面持ちになるのももっともだ。

一番の衝撃は、アベンジャーズ=復讐者による復讐が明確に否定されるところである。生き残ったヒーローたちは最強の新参、キャプテン・マーベルを仲間に加え、優雅に農夫として暮らすサノスを急襲する。このシーンにおける彼らの描写は、悪役そのものだ。これはもちろん意図された演出だろう。

ラスボスには不釣り合いに家庭的な小屋へ、突入してくるや問答無用でサノスを締め上げるキャプテン・マーベル、引き続き床を破って這い上がってくるハルク・バスター、そして、悪の司令官とその副官よろしく制圧が終わった室内へドスドスと入ってくるキャプテン・アメリカとブラック・ウィドウ。極めつけは、インフィニティ・ストーンがサノスによって失われたと判明した後に、必要もなくサノスの首を落とすソー。相手は自分の大切なものを奪った不倶戴天の敵とはいえ、怒りに任せて復讐をする彼らの姿に、我々は衝撃を受ける。

「アベンジ」は摂理による制裁だとすると、同じ復讐という日本語訳がある「リベンジ」は私怨によるものといったニュアンスが強いらしい。『ソー バトルロイヤル』ではソーたちはリベンジャーズなる同盟を結成していたが、少なくとも本作ではアベンジャーズがリベンジャーズになるのは、恐ろしいこと、醜いこと、あってはならないことなのである。

ホークアイの他に"堕ちたヒーロー"として強い印象を残すのがソーだ。先に述べたように、彼はサノスを亡き者にすることでヒーローの座から滑り落ちてしまった。それから5年後、彼の居場所を訪ねた盟友のブルース・バナー(ハルク)とロケットが見たものは、やけ酒をあおり、飛び出た腹をたくわえてネトゲに興ずる引きこもりの神と化したソーの姿であった。彼をどん底へ突き落としたのは、王としての責任感だった。『ソー バトルロイヤル』で崩壊したアズガルドから民を率いて脱出したソーは、前作の冒頭で民を半分の命をサノスに奪われてしまう。最強とも言える肉体を持ちながらも、民を守れなかったという自責の念によって、彼の心はもろく砕け散っていた。

本作の真骨頂はここからである。こうしてヒーローたちが"堕ちた"姿を存分に示しておき、どん底からの再起を描くことで、ヒーローが再度ヒーローになる姿を描いていく。過去の世界に足を踏み入れたトニー・スタークやスティーブ・ロジャースは自分のオリジンと対面するシーンは、ヒーローが最初のように蘇る、輪廻転生を思い起こさせる。

さて、話を、「堕ちた神」ソーへと戻そう。の場合、彼を立ち直らせたのは、過去の世界で出会った母の言葉だった。ソーの母は、傷心のソーにこう語りかける。「大事なのは、自分を受け入れること。未来は辛かった?なりたかった自分になりなさい。」一見、理想の自分になれないのを認めることと、それでも理想を追い求めることは矛盾に聞こえる。しかし、それは両立できる。自堕落で、デブになっても、弱くなっても、それを受け入れた上で、神であり王であるという理想へ自分を方向づけることはできるのだ。

「ヒーローとは何か」という問いに一つの答えが出た。本作が示すヒーロー像とは、厳しい現実を受け入れ、前を向いて歩き出す者である。それはサノスとの戦いではなく、本質的には自分自身との戦いとなる。このテーマは、我々一般人も日々体験しているものだ。明日がどうなるかわからないなか、失敗や理不尽に耐え、それでも前に進まざるを得ない。『エンドゲーム』のヒーロー達は、壮大なストーリーに反してじつに共感できるヤツラなのだ。

アイアンマンやソーと言ったいかにもヒーロー然としたヒーローに喝を入れるのが、アントマンやロケットといった普段飄々とした面々なのもよい。ヒーローにも色々な在り方がある。辛い局面を笑いで乗り切る彼らが垣間見せるマジな顔、そのギャップもまたカッコいい。というか、完全に文脈を離れるけれど、前作に出ていないアントマンが、笑いに、シリアスに、さらにヒーローとしても、冒頭からクライマックスまで活躍し続けるのはファンとしては嬉しい限り。

さて、もう一つ触れておきたいのは、時間の扱い方だ。本作では、時間を遡って過去に影響を及ぼしても、それで現在が変わるわけではない。結果が変わった現在と変わらなかった現在、という2つの時間軸に分岐してしまうだけである。となると、過去のサノスをヒーローを集めて最高のコンディションで倒したとしても、今いる自分の世界がよくなることにはならない。亡くなった大切な人は、戻ってこない。

こうした多世界解釈は知られてきているが、過去は変えられないという性質はこの作品のテーマによく合っていると思う。先述した通り、「自己を受け入れる」ことは「それまでの過去を受け入れる」ことでもある。僕たちが自己を受け入れるのが難しい理由の一つは、過去を変えられないからだ。起こした過ちは、取り消すことはできない。しかし、本作のヒーロー達は、5年経ってしまったところから、未来を切り開いてみせる。こうした設定や展開からは、「過去は変えられない。だから現在に目を向けろ」というメッセージが放たれているように、僕には思える。

総括すると、『エンドゲーム』は長きにわたるMCUの歴史に一度区切りをつける娯楽大作でありながら、ヒーローの内面にも目を向け、我々一般人が日常を生きていくのに必要なエネルギーを与えてくれるような作品となっている。今後もMCUには、ヒーローがきわめて特殊な苦難と向き合うのではなく、僕たちの日常と地続きのような、パーソナルな問題を乗り越えていく、そんなヒーロー達を描いていってほしいと願う。

『アポロ13』

トム・ハンクス主演、ロン・ハワード監督。始まって数秒でこれはジョン・ウィリアムズの音楽だ、と思っていたらジェームズ・ホーナーであった。実話ベースのお話ということもあり結構固めな内容を予想していたけど、最初のシーンで主人公の一人が宇宙船のアナロジーをネタにした下ネタを放つなど、いい具合にユーモアとシリアスなドラマがミックスされ、サスペンスもダレないような、最後まで飽きない作品だった。

アメリカはアポロ11の月面歩行以来もアポロ計画を続行し、1970年にはアポロ13が打ち上げられることになった。世間の注目が減ってきている中、携わる者たち、特に念願の月面歩行へと向かう宇宙飛行士たちの士気は高かった。家族に見送られ宇宙へと旅立った彼らだったが、数々の危機が発生し、対応を迫られることになる。

たった3人、されど3人。彼らの命を、力を合わせて救おうとする人々の奮闘が熱い。密室で緊張感が高まる中、ジョークを飛ばしつつもメンバーを励ます、トム・ハンクス演じる船長の頼もしさよ。当事者の宇宙飛行士だけでなく、地球側の人々が、電力、通信、医療などそれぞれの専門を活かして連携する姿にも心を奮い立たせられる。

人は、ストレスのある状況に置かれるとつい、「なんでこんなことに…」→「誰々のせいだ」という思考に陥りがちだ。この映画でも同様の場面はあるが、船長はすぐにメンバーの言い争いを止めさせ、現状の課題に集中させる。それ以外、誰も責任論を持ち出さず一丸となって救出に尽力する。心の底から、こういう人たちと仕事をしてみたいものだ。

この映画を観たきっかけは、増田が薦めていたことだったが、彼が引用していた台詞がやはり僕の心にも残ったので、ここでも引用したい。

老人ホームに入っている船長の老母が、帰還できるか不安がる婦人と娘を安心させようとして発する言葉である。

心配しないで。たとえ洗濯機で空を飛んでてもあの子は着陸させるわ。

https://anond.hatelabo.jp/20181219152001 

人を信じる圧倒的に強い気持ちが表れた台詞だ。このミッションが成り立ったのも、宇宙飛行士と管制官やエンジニア達がお互いを信頼してベストを尽くした結果だった。僕がこの映画を観たのは、一緒に働いている人に嫌気がさしてその気持ちが人間全体に拡張されようとしている、精神状態の悪いときだった。いつもこの映画のように人間が協力し、成功を生み出せるわけではないけれど、それでも人間に対する不信が浄化されるような、気持ちのいい映画だ。

 

 

アポロ13 [Blu-ray]

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最近見た映画 2018.09-2018.10

 最近は英語の勉強がてらAmazon Primeで洋画を見ている。Prime会員ならば無料で見られる作品もあり、それを差し引いても物理媒体をレンタルする手間が省けるのでとても楽だ。ただし、英語の勉強教材としては英語字幕を出せないことだけが不満の種である。

 太字のものはレビューを書いたもの。

アイアンマン1

アイアンマン2

アイアンマン3

ノッティングヒルの恋人 

カサブランカ

ミッション・インポッシブル

スリービルボード

ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃

シャーロック・ホームズ

ブリジット・ジョーンズの日記

ミッション・インポッシブル2

アイアンマン1, 2, 3

 これまでMCUマーベル・シネマティック・ユニバース)の作品群はアベンジャーズを中心に視聴しており、ストーリーの流れを追ってきてはいるが、本シリーズに手を出すのは今回が初めて。予定が完全フリーの日を利用して一気見した。

 MCUのヒーロー映画は量産されている割に脚本がよいのが特徴で、このアイアンマンでもそれは健在である。アイアンマンは全身を金属アーマーで覆われているため、軽妙な武道系のアクションで魅せるのが困難なタイプのヒーローだ。アクションシーンはどうしてもビームや重火器でドカーンとやる大味なものになりやすい。ところが、いざ見てみるとストーリーや主人公トニー・スタークの描写、ガジェットの使い方が面白く、全く退屈しなかった。

 トニー・スタークはナルシスト、プレイボーイといった言葉が似合う金持ちであるが、天才的エンジニアでもあり、心の奥に強い正義感を燃やしている。このバランスが面白く、わかりやすい格好良さ(イケメンオヤジとして、ヒーローとして)やユーモアといった陽の面とヒーローとしての苦しみという陰の面、双方を併せ持つ人物像はとても魅力的だ。

 例えば、墜落しそうになりながらも初飛行を成功させてバカ笑いしたり、オシャレにアーマーを装着してポーズを決めた瞬間にアーマーが弾け飛んだりするシーンは実に爽快である。また、自分の作った兵器がテロリストに使われたことを知り怒りを見せる姿や、パニック障害を患った上思うようにアーマーが作動しない状況でも果敢に戦いを挑む姿はやはり観客が期待するヒーローのそれである。

 3作の中では1が最も好きだ。アーマーを開発していく過程が冒険心をくすぐるし、地味な伏線を使って恋人への愛着を表現したり勝負の行方へ繋げていくプロットの密度が高い。さすがは、その後壮大な広がりをみせるMCUの幕開け、といったところ。

 英語学習の観点から言うと、主演のロバート・ダウニー・Jrの発音は早口でくぐもっており、あまり聞きやすいとは言えない。アイアンマンシリーズはまだ良いほうで、彼が格好良くて見てみた他の出演作、シャーロック・ホームズはもっと聞き取りづらい。

 

アイアンマン(字幕版)

アイアンマン(字幕版)

 

 

アイアンマン2 (字幕版)

アイアンマン2 (字幕版)

 

 

アイアンマン3 (字幕版)

アイアンマン3 (字幕版)

 

 

 

 

 

『ファインディング・ドリー』

  ディズニー&ピクサーファインディング・ニモ』の続編。『ファインディング・ニモ』で息子を探すクマノミのマーリンに同行したハギのドリーが、今度は自らの家族を探す旅に出る。最近になってよく聞かれる「生きづらさ」を抱えて生きる人へ、その生を肯定する内容である。他の映画と一緒にサッとレビューを書くつもりが長くなってしまったので、記事を分けることにした。

 ドリーは忘れっぽく、会話の途中で話の最初を忘れてしまうほどである。この症状は、彼女が説明に"Short-term memory loss"という固い言葉を使うことからも分かるように、発達障害のメタファーどころかそのものと言ってもいい。こうした特性のおかげで、家族探しは難航する。僕自身、単純な物事の記憶やマルチタスクの不得意、衝動性に日々困っており、彼女の冒険はまるで自分のトロさを外から見ているようで、少し辛く、そしてハラハラした。

 本作において「何かが足りない」登場人物は、ドリーだけではない。足が7本しかないタコのハンクや、近視のジンベエザメのデスティニー、そして片ヒレが小さい前作の主人公、ニモ達がそれぞれの特技を活かし、ドリーを助ける。さらに登場人物の造形はドリーの類型にとどまらず、驚くほどの多様性を見せている。例えば、シロイルカのベイリーは本来の能力を失っていないにも関わらず、能力を使えないと思い込んでいる。ディズニーのキャラクターとしてもっと珍しいところでは、外的弱者に優しく、しかし集団内弱者を執拗にイジメるオットセイなんてのもいる。こうした登場人物の多様性は、発達障害や生きづらさを抱える人が暮らす世界を、寓話的でありながらリアルに表現している。最近のディズニーやピクサーの作品はそういう風潮なのかもしれないが、昔ながらの"勧善懲悪"だとか"きれい事"のような要素はあまり見られず、子供にも安心して見せられるクオリティを保ちつつ現実的なメッセージを発しているといった印象である。

 ドリーの冒険を通じてこちらに語りかけてくるメッセージもまた、多面的で力強い。ドリーの冒険は当初、彼女が衝動を抑えきれず突発的な行動を取ったり、決まった手続きを覚えられないことにより数々の危機に直面することになる。その度、彼女は幼い頃、両親に教えてもらった思い出をフラッシュバックし、ヒントを得て乗り越えていく。特に印象深いのは、枝分かれしたパイプを一人で進む必要に迫られるシーンだ。ドリーは道筋を覚えられるか心配で困り果ててしまうが、父の「どんなときも必ず他の方法があるはずだ」という言葉を思い出し、解決策を考える。このシーンですでに自分は目が霞んでいたのだけれど、感心したのは、後々再度そのパイプに挑戦することになるという点である。結局、やはり道筋を覚えられず迷ってしまうのだが、そこで友達を頼るという別の着想を得て窮地を脱していく。ここで製作者は、壁に当たったときに自分に合った方法をとってもよい、しかし時には真正面から乗り越えるべきこともある、と示唆しているのだ。

 さらに、本作はこうした不器用な人々の背中を押す内容ながら、それを援助する人間への視点も忘れていない。ドリーが一人で危機を乗り越えるときには両親の教育が活かされるし、彼女が並外れた着想を持っているとはいえその実現に快く付き合うのは周囲の仲間たちである。ドリー以外にも、それぞれの弱点を励まし合って克服するデスティニーとベイリーの関係や、ドリーを叱責したりリスクを避けるなど"常識人"のマーリンがドリーのやり方を肯定するシーンなどは、お互いの能力を補い合う姿を美しく描いており、見ている僕もいつも自分を支えてくれる友人達への感謝の念を改めて強くさせられた。

 展開としては特に序盤〜中盤が、楽しい会話やホッと一息する場面も挟みつつ、ずっと緊張感のある話運びで見る者を飽きさせない。他にも、魚の病院の機能を説明するシガニー・ウィーバーのアナウンスをテーマと絡めたり、もうドリーが忘れてしまったであろう過去の会話を他の登場人物が再現するなど細かい工夫がいっぱいで、展開で魅せていくタイプの映画として濃密な脚本となっている。

 

 

こちらは素晴らしいamazonレビュー。

障害を持つ身として、思うように進まないドリーの冒険を、他人事としては見れなかった。

スクリーンの中の部室へ吸い込まれる: 映画『リズと青い鳥』

 せっかくのGWということで映画を観に行く。1日で初めの時間からアニメ映画リズと青い鳥を鑑賞。

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息をするのも忘れ、激しい展開があるわけでもないのに心拍数が高くなる。スクリーンの中の登場人物と同じ空気を吸っているかのような錯覚に囚われ、全編通した静謐さと裏腹に身体は緊張感を伝えてくる、そんな映画だった。 

本作は、弱小吹奏楽部の奮闘と人間ドラマを描いたアニメ「響け!ユーフォニアム」のスピンオフと位置づけられている。といっても、TV版とは絵柄もメインの登場人物も異なっているため、初見の人にとっても概ね問題なく視聴可能と思われる。

主人公は高校3年生の吹奏楽部員2人。進路決定や最後のコンクールを目前にした、別れを意識し始める頃だ。物静かなオーボエ奏者のみぞれと、明るく人気者のフルート奏者の希美はいつも一緒。しかし進路決定や最後のコンクールが迫る中、本番なんて来なければいいのに、とみぞれはつぶやく。二人の関係は少しずつすれ違っていき……。コンクールの課題曲は、孤独な少女リズと彼女のもとに訪れた青い鳥変ずる少女との邂逅を描いた物語をモチーフにした「リズと青い鳥」。それぞれにあたるフルートとオーボエのソロを受け持った二人は、リズと少女を自分たちと重ね合わせる。

映画に色彩をあたえる音の数々

始まってすぐに分かるのが、耳に飛び込んでくる音の生々しさだ。自然に包まれるかのような風の音、葉が擦れ合う音に加えて主人公の足音が鳴る。みぞれが座ると、足音は消え自然音とかすかな旋律だけが残る。その中に近づいてくるテンポのよい足音だけを聞いて、みぞれは希美が現れたのを察する。

全編通して、音は多彩な役割を担わされている。特に目立つのは作品に合わせて吹奏楽編成で演奏された音楽の数々。まずは、従来どおりのBGMとしての使用。それだけではなく、劇中ではもっと密接に登場人物の感情にリンクするシーンもある。例えば、無言で二人が部室へと歩く場面で大きくなっていくヴィブラフォンの音。絵とシンクロした音は、顔すら写されない二人の間に高まる緊張感を痛々しいまでに伝えてくる。冒頭のような幸せな描写よりも、どちらかと言えばこうしたネガティブな気持ちを表すシーンが心に残った。

次に、標題音楽としての「リズと青い鳥」。みぞれ達がコンクールで演奏する吹奏楽曲「リズと青い鳥」のモチーフは、二人が自分の立ち位置と相手の気持ちを理解する上でヒントになる重要な劇中劇であり、映画では現実世界と並行してそのストーリーが描写される。こちらは、完全に劇と音楽が一致した、いわばミュージカルのような作りになっていて、観客の頭を童話の世界へと切り替えるのに一役買っている。

そしてもちろん、吹奏楽部員たちが実際に演奏する音としての音楽。クライマックスでは、作り手がみぞれ達の心を表現するためにBGMを流すのではなく、みぞれ達自身が自分の感情を音楽に乗せて表出させる。サントラに収録されたオーボエの音は、吹っ切れたみぞれの心を自然に観客へと伝えてくる。観客と、部室にいてみぞれの音に圧倒される登場人物の体験がリンクする瞬間だ。

こうしたシーンのみならず、異なる世界(ここでは登場人物の心情と現実世界)を音楽が橋渡ししているのがおもしろい。みぞれの気分が落ち込むにつれ、聞こえていた金管楽器の低音はどんどんと暗く不穏な響きを帯びてくる。そのとき、みぞれの心と現実の境界が曖昧となり、ある種の幻想的な雰囲気が醸し出されてくる。

こころを絵と音で語る

登場人物、特にみぞれと希美の心情を間接的に語るのは、音だけではない。

視覚情報に注目してみると、身体の動きも感情表現における大きなウェイトを占めている。じっと相手を見つめたり、目をそらしたり、横目で見たり、まっすぐ虚空を見つめたり。余談ではあるが、自分も普段余裕があればこうしたノンバーバルなコミュニケーションにも気をつかえるんだろうなーと思う。

中でも特筆すべきは足の動きだ。口調や胴体は平然としていても(たいてい顔は映らない)足は思っていることを顕にしてしまう。足を組んだり、はねたり、広げたり、もじもじしてみたり。自分は脚だけでこんなに感情を語れるのかと好意的に見たが、どこかのレビューで「いくらなんでも脚を映しすぎ。制作陣は脚フェチか」というコメントがあって笑ってしまった。さもありなんという感じである。ちなみに、科学的根拠は別として、FBI捜査官が書いたノンバーバルコミュニケーションの本*1では外見から心を読む方法として脚に表れる情報を重視しており、この映画のアプローチも実は理にかなった方法なのかもしれない。

これらの演出は息遣いなどの音と合わさって、登場人物が生きている、という印象を強くもたせる。自分の目の前に広い空間が広がっていて、隣に登場人物がいるかのような錯覚さえ起こさせる。

人とつながるということ

これまで述べてきたような、言葉を使わず彼女らの心情を表現する手法は、みぞれと希美は仲が良くツーカーであり何も言葉にせず通じ合える、という関係をリアルに描写することに役立っている。そうした関係だからこそ、言葉で理解し合うことが必要になる、それがこの映画が持つテーマの一つだと思う。

みぞれと希美は足音だけで相手を判別でき、微笑んだだけで想いを汲み取ることができる。しかし、なぜ目をそらされるのか、なぜ口調が沈んでいるのか、なぜ誘いを断られるのかが分からなくなり、二人のすれ違いが大きくなるにつれ、対話なしではそれまでの関係を続けていけない事態に直面することになる。

みぞれが思いをオーボエの音に乗せるシーンに始まり、その後対話するシーンへのシークエンスでは、興奮から息をするのも忘れる緊迫感へと急転回する。みぞれが音楽に乗せた感情に対して、希美がみぞれに対して本心を打ち明け、それに応えてみぞれはやっと一番大切な言葉を言うことができる。

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みぞれの背中を押したのは、みぞれの演奏が窮屈なのを感じ取った女性講師である。彼女はリズと青い鳥、二人の登場人物の気持ちを考えてみるようみぞれに促し、さりげなく希美の気持ちを察するよう助言をあたえる。このシーンは、希美の気持ちを考えつつも自分個人の物の見方にとらわれていたみぞれが、他者の視点から世界を見ることで成長するターニングポイントになっている。

劇中劇ではリズと少女は互いのためを思い、別れることを選ぶ。しかし、みぞれと希美にはまだ時間がある。今までずっと一緒にいた、それがゆえに心の底を見せ合うことができなかった二人。彼女たちは、ただ一緒にいるという見かけ上の鎖から解き放たれ、真の自己を見せあったときに道を違うことになりながらも、新しい友だちの形へと生まれ変わることができたのだと思う。一波乱あった後、一緒に帰る二人の間柄はどこかぎこちない。しかし、一瞬重なり合う足音が、再生に向かう関係を示してくれる*2

こうした二人の関係は、本作における他のペアや登場人物とは対照的だ。いつも微笑ましい掛け合いを演じている部長・副部長ペアは、気取らず心の深い部分にまで口に出し合う間柄であり、考え方が違う分ぶつかることも多いが、すれ違いは少ない。一方、本編主人公の久美子・麗奈ペアはふとした言葉がきっかけで生じた関係の亀裂を、思っていることを口に出し修復してきた経緯がある。衝突を乗り越えてこその「言葉のいらない」関係、というわけだ。

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また、一見ギャルのように見える後輩の剣崎梨々花は、他者と通じ合うために自分の想いを積極的に言葉にしていく人物である。みぞれへの好意を隠さない彼女は、落ち込みながらも少しずつみぞれとの距離を縮め、仲良くなることに成功する。みぞれを中心に、対話=価値観の違う相手と言葉で理解し合うこと、が多面的に描かれているのである。

近くにいるのに伝わらない感情

感情を言葉で表現しない、という手法は、リアルな関係を描くだけでなく、登場人物が感情を吐露したときにサプライズを与える役割も果たしている。

みぞれ・希美のような関係を描いているのは何もこの映画だけではない。考えていることを口に出さない登場人物の内面を描くために独白や日記が利用される、なんてことはよくある。この、非言語的表現か言語的表現か、2つの違いは観客がどんな視点で作中の出来事を理解するかを決める。言語的表現では、観客は余すところなく登場人物の心情を知ることができるため、あくまで視点は登場人物と同じになる。一方で、非言語的表現では、観客にとって登場人物の心情を知ることができない部分が出てくる。これは現実に暮らす私達にむしろ近い表現とも言える。なぜなら、私達は他者の心情を少ない言葉と、微妙な体の動きなどで推測しているに過ぎないからだ。だから、豊かな環境音とも相まって、見る者が単純に登場人物に感情移入するだけでなく、初めに述べたようにそこに自分がいるかのような第三者としての臨場感を与えることにもつながっている。

さらに、本作では意図的に希美の心情を隠すという工夫がなされている。中学の頃からずっと希美を追いかけてきたみぞれの心情は一途で、音楽や身体表現を用いた描写からでも十分に理解することが可能である。しかし、終盤で希美が本心を吐露するシーンに至り、実はみぞれも視聴者も、いかにも思っていることを口に出しそうな希美のことを何一つ理解できていなかったのを思い知らされる。このサプライズは、人間同士が通じ合うことの難しさと対話の大切さというテーマに説得力を与えている。

 
観終わって、僕はたしかにこの映画が青春のかけがえない1ページを切り取っていることを感じ取った。中高生のとき(もちろん現在もだが)、人とつながり合うなんてことはとてもレアで大きな体験で、その機会もないまますれ違ってしまうことは多かった。その感性で味わう痛み、喜び、甘酸っぱさはもう過ぎ去ったものであり、みぞれや希美にとっても二度とは訪れない。その幻想を、スクリーンと現実の境目が曖昧になるような体験で思い起こさせてくれる1時間半だった。

 

 

*1:

 

FBI捜査官が教える「しぐさ」の心理学 (河出文庫)

FBI捜査官が教える「しぐさ」の心理学 (河出文庫)

 

 

*2:と言っておきながら、最後に足音が重なり合ってまた離れていく描写、きちんと観れておらず、この記事

blog.gururimichi.com

を読んでから知りました。恥ずかしいことに。こんなことなら予習していくんだった…

心が向かう場所、それは南極。

 ふいに、どこか遠くへ行きたいとか、何かを作りたいとか、はたまた叫びたいとか、自分の中にくすぶるものを表出させたいと思うことがある。アニメ『宇宙(そら)よりも遠い場所』の主人公もそんな想いを胸に秘めた少女だ。

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 今期放送開始の『宇宙よりも遠い場所』は南極を目指す女子高校生達の姿を描く青春アニメだ。高校2年生の玉木マリ(キマリ)は、駅で同級生の小淵沢報瀬が落とした100万円を拾ったことをきっかけに彼女の南極へ行きたいという望みを知り、自分も南極を目指すことにする。

 キマリは、最初から明確な目標を持った人物としては描かれない。行動力もなく、学校をサボってどこかへ旅をする!と決め込んだはよいものの、雨が降ったことを理由にすごすごと戻ってきてしまう始末だ。一方、報瀬には観測員だった母を南極で亡くした過去や、「どうせ南極へ行くなんて無理だ」とハナからバカにする周囲を見返してやるという想いもあり、本気で南極を目指している。それは、物語開始時点で既に100万円を貯めていることからも分かる。

 かといって、キマリが情熱を持てない、ぐうたらな女の子かと言えば決してそうではない。この物語は、

よどんだ水が溜まっている。それが一気に流れていくのが好きだった。

という彼女のモノローグから始まる。 そして、彼女は高校で「青春」をすると決め、ノートにその文字を書き込んでいる。おっとりしながらも、胸の中に非日常への憧れを秘めているのだ。しかし、よどんだ水がどこに行くのか、青春とは何なのか、彼女は分かっていなかった。

 多かれ少なかれ、誰しもキマリと同様によどんだ水の行き先=自分が本当にやりたいことを分かっておらず悩むことがある。それを見つけた人は、僕の周りをみてもほんの一部だ。「本当に自分のやりたいことを探す」という言葉は、進学・就職の過程でよく聞く文言である。それを探し切る前に諦めて文句を言いつつ最初に就いた仕事を続け、あるいは最初に付き合った人と結婚する人も多い。もちろん、まず目の前のことに全力で向き合うことが悪いわけじゃない。しかし「コレじゃない」という違和感を抱いたまま生きている人は、きっと多い。

 『君の名は。』は、SFとしての面白さもさることながら、こうした感情をうまく表現した映画だったと思う。『君の名は。』のキャッチコピーは「まだ見ぬ誰かを、探している」であったが、これは「まだ見ぬ何かを、探している」と言い換えられる。自分の中の高まりをぶつけられるような、しっくり来る何かがあるに違いない、でも分からない、遭遇したらきっと分かるはず、という感情だ。生きているうちに、「君の名前は!」と叫ぶ機会のある人は、幸せと言わなければならない。

 僕にも、昔から自分の中にくすぶる炎、よどんだ水のようなものがあって、それをうまく出せたときは自分でも驚くほどのことを成し遂げられた。問題は、長期的に情熱を持ち続けられるものがないことだった。同時に、「他の人の真似をしていてはそんなものは見つけられない」という強迫観念にも悩まされてきたと思う。

 しかし、キマリが報瀬に感化されて南極への旅というよどんだ水の行き先を見つけた姿をみると、そんな「何がなんでも自分で」と凝り固まった心がスッとほぐれるような心地がするのだ。きっかけはなんでもいい。真似したくなる憧れの人と出会うことだって、一つの能動的な試みなんだ、と思えてくる。

 さて、『宇宙よりも遠い場所』は始まったばかり。 協力として文部科学省国立極地研究所海上自衛隊、SHIRASE5002(一財)WNI気象文化創造センターといった機関が名を連ねているのをみると、実際の南極観測事業や科学研究に基づいた描写になりそうだ。僕らには想像もつかない、しかし全く不可能ともいえない、ソフトなSFとも言えそうな領域の難題を、彼女らはどう乗り越えていくのだろう。

 第1話のクライマックスでは、キマリが不安を乗り越え、大きな目標への小さな一歩として新幹線に乗り、南極観測船を下見するために広島へ向かう姿が描かれる。これから先、友人の夢から始まった南極への旅路が、どう彼女そのものの夢になっていくのか、彼女がどんな活躍で南極を目指すのか、最後まで見届けたい。