スクリーンの中の部室へ吸い込まれる: 映画『リズと青い鳥』

 せっかくのGWということで映画を観に行く。1日で初めの時間からアニメ映画リズと青い鳥を鑑賞。

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息をするのも忘れ、激しい展開があるわけでもないのに心拍数が高くなる。スクリーンの中の登場人物と同じ空気を吸っているかのような錯覚に囚われ、全編通した静謐さと裏腹に身体は緊張感を伝えてくる、そんな映画だった。 

本作は、弱小吹奏楽部の奮闘と人間ドラマを描いたアニメ「響け!ユーフォニアム」のスピンオフと位置づけられている。といっても、TV版とは絵柄もメインの登場人物も異なっているため、初見の人にとっても概ね問題なく視聴可能と思われる。

主人公は高校3年生の吹奏楽部員2人。進路決定や最後のコンクールを目前にした、別れを意識し始める頃だ。物静かなオーボエ奏者のみぞれと、明るく人気者のフルート奏者の希美はいつも一緒。しかし進路決定や最後のコンクールが迫る中、本番なんて来なければいいのに、とみぞれはつぶやく。二人の関係は少しずつすれ違っていき……。コンクールの課題曲は、孤独な少女リズと彼女のもとに訪れた青い鳥変ずる少女との邂逅を描いた物語をモチーフにした「リズと青い鳥」。それぞれにあたるフルートとオーボエのソロを受け持った二人は、リズと少女を自分たちと重ね合わせる。

映画に色彩をあたえる音の数々

始まってすぐに分かるのが、耳に飛び込んでくる音の生々しさだ。自然に包まれるかのような風の音、葉が擦れ合う音に加えて主人公の足音が鳴る。みぞれが座ると、足音は消え自然音とかすかな旋律だけが残る。その中に近づいてくるテンポのよい足音だけを聞いて、みぞれは希美が現れたのを察する。

全編通して、音は多彩な役割を担わされている。特に目立つのは作品に合わせて吹奏楽編成で演奏された音楽の数々。まずは、従来どおりのBGMとしての使用。それだけではなく、劇中ではもっと密接に登場人物の感情にリンクするシーンもある。例えば、無言で二人が部室へと歩く場面で大きくなっていくヴィブラフォンの音。絵とシンクロした音は、顔すら写されない二人の間に高まる緊張感を痛々しいまでに伝えてくる。冒頭のような幸せな描写よりも、どちらかと言えばこうしたネガティブな気持ちを表すシーンが心に残った。

次に、標題音楽としての「リズと青い鳥」。みぞれ達がコンクールで演奏する吹奏楽曲「リズと青い鳥」のモチーフは、二人が自分の立ち位置と相手の気持ちを理解する上でヒントになる重要な劇中劇であり、映画では現実世界と並行してそのストーリーが描写される。こちらは、完全に劇と音楽が一致した、いわばミュージカルのような作りになっていて、観客の頭を童話の世界へと切り替えるのに一役買っている。

そしてもちろん、吹奏楽部員たちが実際に演奏する音としての音楽。クライマックスでは、作り手がみぞれ達の心を表現するためにBGMを流すのではなく、みぞれ達自身が自分の感情を音楽に乗せて表出させる。サントラに収録されたオーボエの音は、吹っ切れたみぞれの心を自然に観客へと伝えてくる。観客と、部室にいてみぞれの音に圧倒される登場人物の体験がリンクする瞬間だ。

こうしたシーンのみならず、異なる世界(ここでは登場人物の心情と現実世界)を音楽が橋渡ししているのがおもしろい。みぞれの気分が落ち込むにつれ、聞こえていた金管楽器の低音はどんどんと暗く不穏な響きを帯びてくる。そのとき、みぞれの心と現実の境界が曖昧となり、ある種の幻想的な雰囲気が醸し出されてくる。

こころを絵と音で語る

登場人物、特にみぞれと希美の心情を間接的に語るのは、音だけではない。

視覚情報に注目してみると、身体の動きも感情表現における大きなウェイトを占めている。じっと相手を見つめたり、目をそらしたり、横目で見たり、まっすぐ虚空を見つめたり。余談ではあるが、自分も普段余裕があればこうしたノンバーバルなコミュニケーションにも気をつかえるんだろうなーと思う。

中でも特筆すべきは足の動きだ。口調や胴体は平然としていても(たいてい顔は映らない)足は思っていることを顕にしてしまう。足を組んだり、はねたり、広げたり、もじもじしてみたり。自分は脚だけでこんなに感情を語れるのかと好意的に見たが、どこかのレビューで「いくらなんでも脚を映しすぎ。制作陣は脚フェチか」というコメントがあって笑ってしまった。さもありなんという感じである。ちなみに、科学的根拠は別として、FBI捜査官が書いたノンバーバルコミュニケーションの本*1では外見から心を読む方法として脚に表れる情報を重視しており、この映画のアプローチも実は理にかなった方法なのかもしれない。

これらの演出は息遣いなどの音と合わさって、登場人物が生きている、という印象を強くもたせる。自分の目の前に広い空間が広がっていて、隣に登場人物がいるかのような錯覚さえ起こさせる。

人とつながるということ

これまで述べてきたような、言葉を使わず彼女らの心情を表現する手法は、みぞれと希美は仲が良くツーカーであり何も言葉にせず通じ合える、という関係をリアルに描写することに役立っている。そうした関係だからこそ、言葉で理解し合うことが必要になる、それがこの映画が持つテーマの一つだと思う。

みぞれと希美は足音だけで相手を判別でき、微笑んだだけで想いを汲み取ることができる。しかし、なぜ目をそらされるのか、なぜ口調が沈んでいるのか、なぜ誘いを断られるのかが分からなくなり、二人のすれ違いが大きくなるにつれ、対話なしではそれまでの関係を続けていけない事態に直面することになる。

みぞれが思いをオーボエの音に乗せるシーンに始まり、その後対話するシーンへのシークエンスでは、興奮から息をするのも忘れる緊迫感へと急転回する。みぞれが音楽に乗せた感情に対して、希美がみぞれに対して本心を打ち明け、それに応えてみぞれはやっと一番大切な言葉を言うことができる。

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みぞれの背中を押したのは、みぞれの演奏が窮屈なのを感じ取った女性講師である。彼女はリズと青い鳥、二人の登場人物の気持ちを考えてみるようみぞれに促し、さりげなく希美の気持ちを察するよう助言をあたえる。このシーンは、希美の気持ちを考えつつも自分個人の物の見方にとらわれていたみぞれが、他者の視点から世界を見ることで成長するターニングポイントになっている。

劇中劇ではリズと少女は互いのためを思い、別れることを選ぶ。しかし、みぞれと希美にはまだ時間がある。今までずっと一緒にいた、それがゆえに心の底を見せ合うことができなかった二人。彼女たちは、ただ一緒にいるという見かけ上の鎖から解き放たれ、真の自己を見せあったときに道を違うことになりながらも、新しい友だちの形へと生まれ変わることができたのだと思う。一波乱あった後、一緒に帰る二人の間柄はどこかぎこちない。しかし、一瞬重なり合う足音が、再生に向かう関係を示してくれる*2

こうした二人の関係は、本作における他のペアや登場人物とは対照的だ。いつも微笑ましい掛け合いを演じている部長・副部長ペアは、気取らず心の深い部分にまで口に出し合う間柄であり、考え方が違う分ぶつかることも多いが、すれ違いは少ない。一方、本編主人公の久美子・麗奈ペアはふとした言葉がきっかけで生じた関係の亀裂を、思っていることを口に出し修復してきた経緯がある。衝突を乗り越えてこその「言葉のいらない」関係、というわけだ。

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また、一見ギャルのように見える後輩の剣崎梨々花は、他者と通じ合うために自分の想いを積極的に言葉にしていく人物である。みぞれへの好意を隠さない彼女は、落ち込みながらも少しずつみぞれとの距離を縮め、仲良くなることに成功する。みぞれを中心に、対話=価値観の違う相手と言葉で理解し合うこと、が多面的に描かれているのである。

近くにいるのに伝わらない感情

感情を言葉で表現しない、という手法は、リアルな関係を描くだけでなく、登場人物が感情を吐露したときにサプライズを与える役割も果たしている。

みぞれ・希美のような関係を描いているのは何もこの映画だけではない。考えていることを口に出さない登場人物の内面を描くために独白や日記が利用される、なんてことはよくある。この、非言語的表現か言語的表現か、2つの違いは観客がどんな視点で作中の出来事を理解するかを決める。言語的表現では、観客は余すところなく登場人物の心情を知ることができるため、あくまで視点は登場人物と同じになる。一方で、非言語的表現では、観客にとって登場人物の心情を知ることができない部分が出てくる。これは現実に暮らす私達にむしろ近い表現とも言える。なぜなら、私達は他者の心情を少ない言葉と、微妙な体の動きなどで推測しているに過ぎないからだ。だから、豊かな環境音とも相まって、見る者が単純に登場人物に感情移入するだけでなく、初めに述べたようにそこに自分がいるかのような第三者としての臨場感を与えることにもつながっている。

さらに、本作では意図的に希美の心情を隠すという工夫がなされている。中学の頃からずっと希美を追いかけてきたみぞれの心情は一途で、音楽や身体表現を用いた描写からでも十分に理解することが可能である。しかし、終盤で希美が本心を吐露するシーンに至り、実はみぞれも視聴者も、いかにも思っていることを口に出しそうな希美のことを何一つ理解できていなかったのを思い知らされる。このサプライズは、人間同士が通じ合うことの難しさと対話の大切さというテーマに説得力を与えている。

 
観終わって、僕はたしかにこの映画が青春のかけがえない1ページを切り取っていることを感じ取った。中高生のとき(もちろん現在もだが)、人とつながり合うなんてことはとてもレアで大きな体験で、その機会もないまますれ違ってしまうことは多かった。その感性で味わう痛み、喜び、甘酸っぱさはもう過ぎ去ったものであり、みぞれや希美にとっても二度とは訪れない。その幻想を、スクリーンと現実の境目が曖昧になるような体験で思い起こさせてくれる1時間半だった。

 

 

*1:

 

FBI捜査官が教える「しぐさ」の心理学 (河出文庫)

FBI捜査官が教える「しぐさ」の心理学 (河出文庫)

 

 

*2:と言っておきながら、最後に足音が重なり合ってまた離れていく描写、きちんと観れておらず、この記事

blog.gururimichi.com

を読んでから知りました。恥ずかしいことに。こんなことなら予習していくんだった…