大切な、しかし自分を不幸にするひと

 近ごろ、仕事をしているときにも帰ってからも心が落ち着くようになってきた。いろいろ考えた末、それは職場の同僚が辞めたせいだと受け入れざるを得なくなった。

 その方(斎藤さんとする)とは、ずっと良好な関係だったわけではない。一度、周囲を巻き込んだ大けんかをしたことがある。原因は互いが話している内容のすれ違いだったが、僕が出張している間に斎藤さんが自らの解釈を職場に広めたため、帰ってきたときにはその誤解をほぐすのに苦慮させられた。その件については僕も配慮の足りない言い方をしたと言えなくもない。ただ、斎藤さんには、自分が批判されたりあるいはされたと感じたり、また他人のアラが目につくと、怒りを抑えきれなくなってしまうところがあった。その怒りに正当性があるにしろないにしろ、斎藤さんはその矛先が向いた人たちに多少なりとも疎まれていた。

そんな一方で、斎藤さんは僕にとって現在の職場で心を許せる数少ない人物であった。現在の職場は、クリエイティブな発想やチャレンジを重視するようなタイプではなく、毎日同じパフォーマンスを出すためにミスや欠陥をつついて無くすことに注力させられるようなタイプだ。その性質が人間の見方にも波及するような面もあって、癖のある人間や長所短所のハッキリしているピーキーな人間は敬遠される傾向にある。斎藤さんも僕も、そちら側に近い人間であったからか、何それが悪いだとか他人の噂だとかよりも、時事や科学、芸術についての話をよくした。

 斎藤さんが急遽辞めることになったとき、正直なところ僕はかなりの寂しさを感じた。最後の数日は、斎藤さんも僕もいつもより話しかける頻度が高かったから、たぶん相手もいくぶんか名残惜しさを感じてくれていたのだろうと思う。斎藤さんがいなくなってから数週間は、仕事でもプライベートでもどこか覇気のない、落ち込んだ状態が続いた。しかし、最近になってふと、自分のメンタルも、職場の雰囲気もがらりと良くなっているのに気づいた。人がいなくなって仕事量は増えているのに、皆生き生きと働いている。それを見て、「ああ、口に出さない人であっても、みんな内心は斎藤さんがいると心穏やかではなかったのだな」と思った。実際、僕も斎藤さんがいなくなってから、過去の大げんかや、時々きこえる嫌味な口ぶりを何度も頭の中で反すうしなくなっていることを発見した。いなくなったときはあんなに寂しかったのに…と自分の心の二面性に直面しつつ、自分の好みの人間と、自分の幸福に寄与する人間は違うのだなあと思わされた出来事であった。