人生は、カジキとサメの繰り返し: ヘミングウェイ『老人と海』

長い時間をかけたものが徒労に終わると、もう失った時間は戻ってこないということがひしひしと感じられ、虚しい気持ちになる。『老人と海』の老人ことサンチャゴが長い闘いの末カジキを得てそれを失っていく姿を見て、研究時代に他のグループに同じテーマの論文を先に出されたときのつらい気持ちを思い出した。あのときは、今まで何をやっていたのか、今後自分は生きていけるのだろうか、と過去と未来が往来して何も手につかなかった期間が長く続いた。

さて、サンチャゴは、周囲から「もうあいつはダメだ」と後ろ指をさされるような、老いぼれの漁師である。彼を慕うのは、幼い頃から共に漁に出かけた少年と、近くの料理屋の店主ぐらい。その少年も、父に命ぜられ、他の漁師の船に乗ることになった。少年よりも釣果が少ないサンチャゴは、それでも一人海に漕ぎ出していく。

沖合に出たところで、彼は思いがけず大物のカジキを引き当てることになる。衰えた体力を振り絞り、手を痛めつつも、綱を引きカジキと戦うサンチャゴの脳裏を心細さが襲う。

あの子がいてくれたらなあ

何度も弱音を吐き、その度にユーモアを発揮して自分を励ます彼の姿を見て、僕はなんとかっこいいんだろうと思う。本当に辛いとき、人は独りだ。横に人が立っているだけで人は孤独を感じなくなるわけじゃない。その辛さを分かち合ってくれる人がいなければ、人はやはり独りなのだ。サンチャゴも、独りであることに耐えきれず、慣れ親しんだ少年が側にいてほしいと泣き言を言う弱さを持っている。それでも、むしろそれでこそ、つまり弱さを持ちつつ、釣ったシイラやトビウオで腹をつなぎつつ闘い続けるようなワイルドさを併せ持っている彼は、まぎれもない強い男である。こういうのをハードボイルドというのだろう。

三日三晩の闘いの末サンチャゴはカジキに勝つが、帰途でカジキを狙うサメの群れに狙われる。何度追い払い、船の中にある得物を全て使い果たすまでサメと闘うサンチャゴ。彼の中にはもはや少年を頼る気持ちすらなく、朦朧とした意識の中、希望と絶望がかわるがわる訪れては去っていく。「本当にこの大魚を釣り上げるべきだったのか?」これは僕も、特にやっている仕事がダメになっていく過程において、幾度となく自分に発した質問だ。自分の決定が信じられなくなっていき、幻滅する過程は、毎回二度と味わいたくないと思う。

頭を残してカジキの全てを食べられてしまったサンチャゴは疲労困憊して家に帰り、溶けるようにベッドで眠り込む。彼の手を見た少年は、サンチャゴの過酷な闘いを思い、人の目をはばからず涙する。その一方で、彼の船に残されたカジキの残骸を見たカップルの女は、サンチャゴの奮闘を伝えようとする他人の話を聞き流しつつ「サメの尻尾ってキレイなのね」などと言っている。いい気なものだ。サンチャゴの偉業に気づいているのはごくわずかな人間だけであり、それ以外の人には知ったことではないのである。彼がこの航海で得たものはなんだったのだろう。あえて言えば、ほんの少しの漁師仲間が、彼の漁師としての力量を認めるようになったこと。ただし、サンチャゴが航海で得たものはたったそれだけだ。少しばかりの賞賛を残して船以外の漁具を失った当の本人は、ベッドの上で夢を見る。その姿に、敗北者としての惨めさはまったく感じられない。きっと、手の傷が治れば、また変わらずに漁へ向かうのだろう。

"人間は負けるように造られてはいないんだ"

"人間は殺されるかもしれない、けれど負けはしないんだぞ"

そうだ、僕も人間だった。だから、何度サメに喰われようとも、僕は今日もカジキを採りに一人で海へ漕ぎ出してゆくのだ。

老人と海 (新潮文庫)

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