睡眠不足(となにか)で人生が破滅しかけた話

  • ことの顛末
    • 分かっていてもなかなかできない「よく寝ましょう」
    • 破綻するまでの生活
    • 日曜の朝から晩までパソコンの前で呻きながら過ごす
  • 睡眠不足の影響
    • 単純作業効率の低下と全体性が捉えられなくなること、面倒くさくなること
    • 生活がコントロールできなくなる
    • 仕事ができなくなる
    • 人間関係が悪くなる
    • 経験を活かせなくなる
    • 結局、どうすればよいのか

 

ことの顛末

分かっていてもなかなかできない「よく寝ましょう」

 睡眠は大事なものだ、という考えは広く知られているが、骨身に沁みるほどわかっているかと言われたらそうではない、という人が多いのではないだろうか。むしろ、大抵の場合は自己コントロールがある程度効いていてそこまでに至らないだろう。何事も「知識として持っている」こと、「体験として理解していること」、「実践できること」には大いに差がある。うまくいっている間は最初の2つができなくとも実践はできる。例えば、小さい頃からの習慣付け、早寝早起きがしっかり身についている場合だ。その習慣という名のレールから外れたとき自力でグイッと戻る力が比較的弱い人には幸か不幸か、2つめの段階を味わう機会が与えられる。あまりに当たり前の、「よく寝ましょう」がやっとできるようになってきたという話。

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図書館にて

 その図書館はもう忘れかけていたような空気に満ちていた。

 今日こそは朝から晩まで本を読もうと決め込み家から出ないつもりだったが、晴れ渡る空を見ていると無性に外に出たくなった。自転車を漕いで坂道を登り、訪ねたことのなかった図書館へ向かう。

 側に山道のある、木々に囲まれた小さな図書館だ。駐車場には車がいっぱいで自転車も数台停まっている。その盛況ぶりに、こんな田舎の山にある図書館によく来るものだ、と少々意外の念に打たれる。

 中に入ると、低い天井のこじんまりした部屋に人の頭くらいまでの本棚が並び、横から暖かな日差しが差し込んでいる。床に座ることのできるスペースでは年端もいかない子供が何人か黙って絵本を読んでいるのが見えた。その横にはそれぞれの父親か母親が、これまた静かに本を開いている。不思議な、オブジェのようにみんなが座っているばかり。

 持参した本を読むための机を求めて奥の部屋へ足を進める。入ってすぐ耳に飛び込んできたのは、からかい合う男の子の声。そちらに目を向けると、小学校高学年くらいの男の子3人と女の子1人が机で勉強している。男の子同士ちょっかいをかけたり歌ったりして勉強が進まないのを、静かにしないとダメだよ、と女の子がたしなめるが、一向に聞く気配はない。

 部屋には、僕のほかに、時代小説を読むおじさんと、司書であるらしいエプロンをつけたおばあさんがいた。柔和そうなおばあさんは、棚を直しつつ、興味を惹かれた本を拾い読みしている。ほかの部屋に移ることができるにもかかわらずこの部屋で読んでいるということは、子供らの声がさほど気にならないのだろう。

 僕も席に着き、この図書館の空気にはいささかふさわしくない、孤独を酒とセックスで紛らわす作家の物語を読む。おじさんとおばあさんと同じく、なぜか僕も子供らの声にイラつくことはない。むしろBGMのように淡々と耳を通り過ぎていく。

 ふと顔を上げると、僕には珍しく1時間が経っていた。おばあさんは本の整理をやめ、座り込んで読書に夢中になっている。子供らは相変わらずで、耳を傾けると、学校で誰々が怒られただの、遠足の思い出などの話に花を咲かせている。お目付役の女の子も、つい話に乗ってしまい、さんざん盛り上がった後にふと我に返って叱る、ということを繰り返している。

 彼らを見て、自分が小学生だった頃を思い出す。あの頃は、辛いこともあったけど毎日が生き生きしていた。自分はどうなるべきか、なんて考えることもなかった。今戻れたら、何をするだろう。彼らも、そのうち進路や人生に悩む日が来るのだろうか。あるいは、互いの性別を意識して一緒に勉強するのをやめてしまうのだろうか。

 ほっこりした気持ちと、少しの哀しさを感じながら本を閉じ、出口へ向かう。最後に振り返ると、おばあさんと男の子、女の子の3人で何やら話をしているのを目にして、なんだか感じのよいやつらだな、と思う。

 帰りに立ち寄ったスーパーでも、また彼らに出くわした。今度は4人ともガヤガヤと元気を発散しながらお菓子を決めている。僕は心の中で、少年少女よ、現在を精一杯楽しんでくれ、と願いながら、スーパーを去る。

大学生活最後の日

 僕にとって、大学は20代のほとんどを費やした場所だ。先日、その大学院を卒業した。

 卒業式は晴れ晴れとした気分もある一方で、周りとの差を否応なく感じさせられる場でもあった。スーツを着込み、胸を張って家を出たは良いものの、会場までの道で他の卒業生が合流してくるたび、自分が無性にみすぼらしく思え、背筋が曲がりそうになるのに度々気づいて姿勢を正そうとした。会場に到着すると卒業生たちは、友人同士か、研究室仲間か、談笑したり写真を取り合っている。僕が留年している間に思いつく友人は大学から去ってしまったし、研究室外の付き合いもさかんだった訳ではない。自然、今日も一人だが、もう慣れたものだ。早々とホール内に入り腰を下ろすと、楽しそうな男性グループや恋人同士と思われる男女、二人組のアジア人留学生などに囲まれた。僕の隣には誰も座ってこない。待っているうちに、座席にいる卒業生の写真撮影が始まる。カメラマンに後ろの二人を撮りたいから頭を下げてくれないかと言われて、自分が被写体に値しないかのような意識にとらわれる。

 卒業式では、各専攻の代表者が呼ばれ、壇上で学位記を受け取る。彼らのきりりとした横顔やスーツ、振袖姿を見るたび、老けて下膨れた自分の顔が嫌になる。壇上を見つめる僕の視線上では、整った顔立ちではないが眼鏡をかけた賢そうな男子学生と、茶髪でショートカットの、これまた利発そうな女子学生がこつんと肩を触れ合わせ、内緒話をしている。式も終盤になり、学長の目に留まった論文が紹介されると、僕のいたたまれなさもさらに増してくる。なんとか修了はしたが、果たして僕の論文は彼らの内容に匹敵するだろうか。もちろん最も注目されるようなほんの一握りと比較して劣っていても恥じるべきでないことはわかっているし、また研究には簡単に優劣を付けられるとは思っていない。けれども、自分が残した論文は全体の下の方にあることは確かだろう。こうして、ともすれば卑屈なことをささやいてくる心の声を懸命に抑えつつ、長かった僕の大学生活は終わりを迎えた。

 振り返ると、ここ数年は孤独だったという他ない。研究室にも心を開いて付き合える相手はほとんどいなかったし、大学内にすら相談できる相手はいなかった。「研究以外のことをやっているから結果が出ないのだ」という言葉を判断力の低下した頭で額面通りにとらえ、社交もしなかったおかげで共同研究者以外の人脈も広がることはなかった。たとえ孤独でも、それを埋め合わせる何かがあれば心は満たされただろうが、研究もうまくいっていなかった。そんな有様だったので、その日卒業したとき僕の中にあったのは、正直に言えば達成感よりも「やっと終わった」という安堵感の方だった。