いまを生きていくためのヒーロー映画:『アベンジャーズ/エンドゲーム』

 今さらすぎるけど、途中で完成させるのを忘れてたレビューを上げておく。

GW中、我慢しきれずに観に行った『アベンジャーズ/エンドゲーム』。MCUが一区切りする今作では、ここにきて、ヒーローとは何かとくと見よ!と言わんばかりにヒーローらしい姿が描かれる。少なくとも僕は、エンタメとしてのヒーロー映画を観るとき、どうしても日頃の鬱憤が晴れるような爽快感を期待する。本作はまさにそれを満たしてくれた。

 

『インフィニティ・ウォー』を観たとき感じたのは、サノスに対して犠牲を払えないヒーローたちが敗れるなら、それこそが完結編でサノスに対して勝つ理由になってほしい、ということだった。その願望が十分満たされたかと言えばやや不満なのだが、ここではさておき本作が呈示するヒーロー像とは何か、どう描かれているのか、といった点について語っていきたい。

『エンドゲーム』においてヒーローのヒーローたる所以が描かれている、その肝はなんと言っても会話劇、人間ドラマである。『インフィニティ・ウォー』では、始まってから終わるまでずっとサノスとヒーローがラウンドを変えて戦っていた。それと比べると、本作でアクションが占める割合はそう多くなく、むしろ人間ドラマに主軸が置かれている。台詞が多い分名台詞も多く、見返すとしたらインフィニティ・ウォーよりも僕はコチラ派だ。

特徴的なのは、全編を包むユーモアである。よくもまあこれだけのジョークを矢継ぎ早に入れることができたものだ。『エンドゲーム』を観ると分かってくるのは、前作の結末や予告編を知っている者からすると驚くほど笑えるということである。特に、これまで堅物と言ってよいキャプテン・アメリカが、これほどジョークに活躍するとは思わなかった。『シビル・ウォー』を彷彿させるエレベーターの緊張感を「ハイル・ヒドラ」で切り抜け、姿を変えたロキに間違えられ、倒した相手に「これがアメリカのケツか」と呟くシークエンスは筆者ならずとも劇場中の笑いを誘った。

こうしたユーモアは観客を笑わせるためだけのサービスだろうか?決してそうではない。絶望に満ちた世界を舞台にしながらも、ドラマに観客を引き込むことに役立っているのだ。なにせ、前作でサノスが指パッチンして、ヒーローを含めた全生命の半分が消滅したところから本作は始まるのだ。もし、そのまま辛気臭いお通夜ムードを何時間も見せられたら観客はたまったものではないだろう。

笑いと会話で大いに尺をとった会話劇の中で、製作者は「ヒーローとは何か」という描写を多面的に積み上げていく。まず序盤では、ヒーローたちが挫折し、苦しむ姿がそれぞれに描かれる。象徴的なのは、ホークアイだ。彼は、家族を失いギャングたちを成敗して回る復讐(というより当てつけ?)の鬼、ローニンと化してしまう。ナターシャが沈痛な面持ちになるのももっともだ。

一番の衝撃は、アベンジャーズ=復讐者による復讐が明確に否定されるところである。生き残ったヒーローたちは最強の新参、キャプテン・マーベルを仲間に加え、優雅に農夫として暮らすサノスを急襲する。このシーンにおける彼らの描写は、悪役そのものだ。これはもちろん意図された演出だろう。

ラスボスには不釣り合いに家庭的な小屋へ、突入してくるや問答無用でサノスを締め上げるキャプテン・マーベル、引き続き床を破って這い上がってくるハルク・バスター、そして、悪の司令官とその副官よろしく制圧が終わった室内へドスドスと入ってくるキャプテン・アメリカとブラック・ウィドウ。極めつけは、インフィニティ・ストーンがサノスによって失われたと判明した後に、必要もなくサノスの首を落とすソー。相手は自分の大切なものを奪った不倶戴天の敵とはいえ、怒りに任せて復讐をする彼らの姿に、我々は衝撃を受ける。

「アベンジ」は摂理による制裁だとすると、同じ復讐という日本語訳がある「リベンジ」は私怨によるものといったニュアンスが強いらしい。『ソー バトルロイヤル』ではソーたちはリベンジャーズなる同盟を結成していたが、少なくとも本作ではアベンジャーズがリベンジャーズになるのは、恐ろしいこと、醜いこと、あってはならないことなのである。

ホークアイの他に"堕ちたヒーロー"として強い印象を残すのがソーだ。先に述べたように、彼はサノスを亡き者にすることでヒーローの座から滑り落ちてしまった。それから5年後、彼の居場所を訪ねた盟友のブルース・バナー(ハルク)とロケットが見たものは、やけ酒をあおり、飛び出た腹をたくわえてネトゲに興ずる引きこもりの神と化したソーの姿であった。彼をどん底へ突き落としたのは、王としての責任感だった。『ソー バトルロイヤル』で崩壊したアズガルドから民を率いて脱出したソーは、前作の冒頭で民を半分の命をサノスに奪われてしまう。最強とも言える肉体を持ちながらも、民を守れなかったという自責の念によって、彼の心はもろく砕け散っていた。

本作の真骨頂はここからである。こうしてヒーローたちが"堕ちた"姿を存分に示しておき、どん底からの再起を描くことで、ヒーローが再度ヒーローになる姿を描いていく。過去の世界に足を踏み入れたトニー・スタークやスティーブ・ロジャースは自分のオリジンと対面するシーンは、ヒーローが最初のように蘇る、輪廻転生を思い起こさせる。

さて、話を、「堕ちた神」ソーへと戻そう。の場合、彼を立ち直らせたのは、過去の世界で出会った母の言葉だった。ソーの母は、傷心のソーにこう語りかける。「大事なのは、自分を受け入れること。未来は辛かった?なりたかった自分になりなさい。」一見、理想の自分になれないのを認めることと、それでも理想を追い求めることは矛盾に聞こえる。しかし、それは両立できる。自堕落で、デブになっても、弱くなっても、それを受け入れた上で、神であり王であるという理想へ自分を方向づけることはできるのだ。

「ヒーローとは何か」という問いに一つの答えが出た。本作が示すヒーロー像とは、厳しい現実を受け入れ、前を向いて歩き出す者である。それはサノスとの戦いではなく、本質的には自分自身との戦いとなる。このテーマは、我々一般人も日々体験しているものだ。明日がどうなるかわからないなか、失敗や理不尽に耐え、それでも前に進まざるを得ない。『エンドゲーム』のヒーロー達は、壮大なストーリーに反してじつに共感できるヤツラなのだ。

アイアンマンやソーと言ったいかにもヒーロー然としたヒーローに喝を入れるのが、アントマンやロケットといった普段飄々とした面々なのもよい。ヒーローにも色々な在り方がある。辛い局面を笑いで乗り切る彼らが垣間見せるマジな顔、そのギャップもまたカッコいい。というか、完全に文脈を離れるけれど、前作に出ていないアントマンが、笑いに、シリアスに、さらにヒーローとしても、冒頭からクライマックスまで活躍し続けるのはファンとしては嬉しい限り。

さて、もう一つ触れておきたいのは、時間の扱い方だ。本作では、時間を遡って過去に影響を及ぼしても、それで現在が変わるわけではない。結果が変わった現在と変わらなかった現在、という2つの時間軸に分岐してしまうだけである。となると、過去のサノスをヒーローを集めて最高のコンディションで倒したとしても、今いる自分の世界がよくなることにはならない。亡くなった大切な人は、戻ってこない。

こうした多世界解釈は知られてきているが、過去は変えられないという性質はこの作品のテーマによく合っていると思う。先述した通り、「自己を受け入れる」ことは「それまでの過去を受け入れる」ことでもある。僕たちが自己を受け入れるのが難しい理由の一つは、過去を変えられないからだ。起こした過ちは、取り消すことはできない。しかし、本作のヒーロー達は、5年経ってしまったところから、未来を切り開いてみせる。こうした設定や展開からは、「過去は変えられない。だから現在に目を向けろ」というメッセージが放たれているように、僕には思える。

総括すると、『エンドゲーム』は長きにわたるMCUの歴史に一度区切りをつける娯楽大作でありながら、ヒーローの内面にも目を向け、我々一般人が日常を生きていくのに必要なエネルギーを与えてくれるような作品となっている。今後もMCUには、ヒーローがきわめて特殊な苦難と向き合うのではなく、僕たちの日常と地続きのような、パーソナルな問題を乗り越えていく、そんなヒーロー達を描いていってほしいと願う。