夜道にて

GWもあと2日で終わるという中、近くの居酒屋で呑む。

今日は勉強をしようと思っていたのに、朝から、文章がうまいと思うブログの分析を始めてしまい、結局8時間も費やしてしまった。分析するというのはよく言ったもので、実際のところはネットサーフィンと大差なくエントリ間を飛び回って、ここがいいあれがいいと考えているだけのことである。

以前と思えば、こういう非生産的な、目に見えたアウトプットや勉強をすることがない日の罪悪感は減った気がする。それがいいことなのか、悪いことなのかはわからない。

自分の進んでいる道が良いのか悪いのか、というのは一人で住んでいると頻繁に遭遇する問題だ。一人で暮らすようになって以来、特に認知療法を初めて以来、誰も話す人がいないということもあり考え事をする時間が増えた。それは、より善く生きるためにはどうすればいいかという倫理的なトピックの場合もあるし、なぜ自分はこの映画が好きなのか、という他愛もないトピックの場合もある。いずれにせよ、長い時間を考え事に費やすと、自分の精神が変容していくのを感じる。わからないのは、その是非だ。変容するのは成長なのか、あるいは異常性を増しているだけなのか。

困ったことに、変容すればするほど、周りとのコミュニケーションがうまくいかなくなる気がするのである。同じ業界や職場の人とは以前から話が合っていたわけではないが、以前から気の合っていた友人や仲間ともそうなってしまうのが怖い。

学生の頃は、なんだかんだで気の合う友人と月に1回は顔を合わせ、言葉を交わす時間があった。現在、彼ら・彼女らはほぼ全員結婚し、子供もいる。数年前のような頻度で会話はできなくなっている。その分会話する度の喜びは大きなものになるのだが、いつか、話が噛み合わなくなり、誰とも通じ合えなくなるという恐怖に怯えている。

とはいえ、現在はまだ、仕事を除いて他人とのコミュニケーションに困ることはない。居酒屋で自分からライフスタイルやパーソナリティが離れているだろうな、という人がいても、たいていは話を合わせることはできる。ただし、心が通じたと思えることはない。言葉が互いの表層を行き交っているだけのことだ。こんなことに悩むくらいなら、ありとあらゆる人の文化背景も考え方も違うような、多民族国家に移住すればいいのだろうか、とも思えてくる。

居酒屋を出て歩き、コンビニに立ち寄って、高くもなく、一番安いわけでもないプリンを買う。すれ違う飲み会帰りの人々に比べ、自分はなんとみすぼらしい格好をしているのだろうかという考えが頭をよぎるも、それは体型の問題だ、と打ち消す。自分も、そんなふうに大声で笑って、爽やかに生きれたらよいだろうけど、当面それはできそうにない。

コンビニを出て人通りの少ない道に入ると、脇の家から賑やかな笑い声やテレビの音が流れてくる。ガラス戸一枚隔てて、自分とは全く違う人生、生活が息づいているのを感じる。

家の前の通りには、ずっと向こうまで、街灯に照らされた道が続いている。歩いている者はいない。今度は誰の息遣いも聞こえず、自分だけがこの世界に一人存在しているかのような気持ちにとらわれる。もちろんそんなことは気の所為で、明日になれば子供たちが道路を走り回り、明後日にはまた仕事が始まるのだ。

明日はどうしようか。本当なら勉強をした方がよいのだろうが、また戦場に戻る前に休息を取ろう。今度は、なんとなく何もしないのではなく、休むと決めて休もう。余計なことも考えずに。