つながりを得られる場所を探して

仕事場で、ふと周りに目をやり、ため息を漏らす。この仕事を初めて以来、朝から晩まで他人と狭い空間に詰め込まれ、常にコミュニケーションを強いられている。疲れの溜まり方は段違いだし、いつも息が詰まるような気さえする。

今の職場に来るまでは、人と同じ空間にいるとはいえ会話の必要はなく、皆思い思いに動き回っているような環境だった。それと比べると、まず単純に人口密度が高い。すると、動きが交差する頻度も高くなるので、立っているだけで邪魔にならないか気を配らなければならない。それだけでなく、どうしても他人の動きが視界に入ってきて集中力が削がれる。

いちばん困るのは、作業を共有しなくてはいけないことだ。断っておくと、各人に割り振られた仕事を持ち寄ってミーティングし、すり合わせをする、というように他者とコラボレートするのは嫌いじゃない。ゆるい作業の共有には、自分の意思が入り込む余地がある。その一方で、現在の職場のようにリアルタイムで作業を共有する場合には、結果が出せば許されるわけじゃなく、プロセスまで共有される必要がある。それを規制する決まりが法律だけならよいけれど、会社独自のルール、部署独自のルール、個々人のルール…と、ある。そのうち、結果を出すために絶対的に守る必要のある決まりというのは、多くはない。むしろ、一つの文化としてなんとなく決まっているのだ。そして、こういう必然性のない決まりほどやる気を削ぐものはない。僕は「結果を出せばプロセスはどうあれ認められる」世界を去る決心をしたのだから、文句はいえないのだけれど。

ここで自分の性質に目を向けると、僕はマルチタスクが苦手である。一つのことに集中して、飽きたらまた別のことに集中して、というのが好きだ。だから、上のように作業をリアルタイムで他人と共有して、仕事を進めなくちゃならない環境では、とても疲れる。のめり込めば周りとの連携が取れなくなるし、他人に気を配れば手元の仕事がおぼつかなくなる。いつまで経ってもギアが上がらない。その疲労が貯まってくるとミスも増えてくる。…という悪循環になる。

そんな状態で余裕がなく、また他人に目を向けるのが億劫なものだから、狭い空間でいつも自分に他人の感情が流れ込んでくるような環境や、言葉を介さずわかるよね?といったテキパキ、ツーカーが求められる環境は正直言って勘弁してもらいたいとも思っている。打ち合わせするように、目的と理由、手段と要望を口で言え、と思ってしまう。

とはいえ(都合のいいことに)、こんな僕でも、相手へ完全に意図が伝わったときは嬉しい。自分のやりたいことを相手が把握してお膳立てしてくれるときや、逆に相手の意図が手に取るように分かり、効果的なヘルプを出せるときには、ツーカーっていいよな、とも思ってしまう。

きっと、普段「他人はどうせ自分を理解できないだろう、それならひとりがいい」と思っている自分は、本当はひとりがよいのではなく、つながりがほしいだけで、そうでなければただ疲れるからひとりの方を選んでいるのだと思う。

現在の職場にいるとつながりが得られない、と特に感じるのは、仕事のスピード感に起因する問題なのだろう。腰を落ち着けてやるミーティングでは、言葉だけでなく文字や図を使って自分の意思を伝える方法がある。ところが、リアルタイムで動く仕事では、自然、言葉を省いて一を聞いて十を知るというコミュニケーションになりがちだ。そして、他人を見る余裕がない人は、言外の情報を補うことができない。長く同じ職場、同じメンバーと働いていれば少しずつ改善してくるものではあるのだけれど…。

共同作業が必要な環境に身を置くのは、確かに、自分の苦手なスキルを伸ばすという意味では僕には有意義な経験だった。しかし、「そろそろもういいだろう、自分に合った環境を、居場所を、見つけたい」と思わずにはいられない。いつかそういう場所に身をおければいい。いや、身をおければいいなんて他人まかせの言葉じゃなく、身をおくんだ、と書いておこう。