頭のはたらき・メンタルによかったこと

転職して3年弱、自分で「やりきった」という手応えを感じる仕事ができていない。ふとしたときに頭の中で「成果を出さなくては」「休んだほうがいい」とせめぎ合いが始まり、疲れてしまうことが多くなった。

任期付き職員なので、何年後かには次の職を探さなくてはならない、というプレッシャーがある。またその背後には、「能力の得手不得手の差が激しく、就く職業によっては業務内容が苦痛にもなり得る」という自覚が潜んでいる。

ただ本当のところ、成果を出さなければ自分で自分を認められない、それ自体が辛いのだという気がする。「仕事だけが人生ではない」口で言うのは簡単だが、そう割り切れるものではない。

それに、恥ずかしい話だが異性から認めてもらいたい、という焦りもある。職場じゃなく他の場所でパートナーを見つければよい話だ、とは思う。しかし果たして、これほど仕事に打ち込んでいるのに成果を出せない者を、誰が好んで一生連れ添ってくれるのだろうか。

と、集中力が切れるとあらゆるときにこうした思考が忍び寄ってくる(特に休日)ので、「成果を出す」以外のところからメンタルを改善する必要性を感じたわけだ。そのメモを残しておく。

よく寝る

以前こちらの記事で睡眠不足が自分にとって如何に危険だったか、を書いた。

tawashan.hatenablog.com

しかし転職して成果を出そうと焦るあまり、つい仕事や読書で夜ふかしが続くようになってきていた。「なんかヤバいな」と思ったのは、上の記事に書いたとおり、他人とのコミュニケーションが取れなくなってきたり、午前中から何をするのも億劫な気がしたり、といった日が続いたのがきっかけ。以前とは違い、破綻する前に気づけたことについては、自分でも最低限の成長をしていると褒めてやりたい。

で、寝るための方法。周りの人や著名人の睡眠時間を聞いてみた上で、「こんなスゴい人でさえ7時間寝ている。6時間の自分に何ができるというのか」と自覚すること。正直、ずっとこれでうまくいくかどうかは自信がないけれど、まあ2週間程度は続いている。

HIIT(High Intensity Interval Training)

全力に近いような強い運動と、休憩を交互に行う運動だ。もともと運動が抑うつや認知力に好影響をおよぼすことはいくつかの書籍から知っていた*1*2

いまでも、健康への効果を期待したときの歩数8000歩*3は通勤日であればクリアしていることが多い。ただ、それだけではどうも頭がボーッとする気がするので、強度の高い運動を増やす必要を感じていた。

問題は、いつどの程度の時間を費やすかだ。本音を言うと毎日30分程度ランニングをすることが理想だが、これまで着替えを面倒くさがったり、雨を理由にサボったりと続いた試しがない。しかも僕は、筋トレとかランニングといった単調な運動では、音楽を聞いたとしても集中力がもたない(複雑でかつ自己表現もできるダンスは頭も使ってクタクタになるけれどめちゃくちゃ楽しかった)。

というわけで、5分で脂肪燃焼に効果があるらしい*4、そして室内でも行えるHIITを選んだ。本来の目的はメンタルと認知力の改善だが、続かなかったら意味がない。この際天気や準備に左右されず、かつ何かしらの付加効果もついてくるなどモチベーションを維持できることが大事だ。

ペースとしては2日に1回を絶やさず、3週間程度やっているが、そこそこの効果はあるように思う。メンタルに関して、仕事でストレスがあったときも「それがナンボのもんじゃい」と強気でいられる気がするし、同僚との会話でもやや言葉が出てきやすくなっているように感じる。

ただ注意すべきは、21時以降にやると、就寝時に心臓がバクバクして眠れなくなることだ。ちなみに眠気はちゃんとあるので、身体の別の部分のはたらきが競合し合っているのではないだろうか。

活動計画表

*5*6

あらかじめ時間ごとに活動を決めておき、それぞれの活動の快楽、あるいはやりがいを%で予想しておく。活動後、実際の快楽orやりがいを記す。ある活動が自分にとって有益なのか、そうでないのか、を分析するための手法だ。

やってみると、ひとりで博物館・美術館を訪ねたり本を読んだりする時間でかなりの快楽を得ているのに気づく。また、めんどくさくて仕方ないと思っていた掃除や料理にもそこそこのやりがいを感じられるということも分かる。

意外だったのは、書店で買う本を迷っている時間の快楽度が低かったこと。逆に、目的(お目当ての本の下見)があって訪れた際は快楽度が高くなる。また、同じ「カフェで読書」でも、SNSをチラ見しながらでは著しく快楽度が低くなっていた。総じて、ネットサーフィンや書店でのブックサーフィン?など、「迷う」「目的のない」「集中していない」時間の快楽・やりがいは低かった。

ただ、その本質は「自分の行動をコントロールできていない」ことへの不満ではないだろうか。記録する前の話だが、「この時間は買う本を迷う」「ネットサーフィンをする」「何もしない」と決めておいたときは、わりと満足できていた気がする。「やめなければ」と思いつつズルズルと惰性でやるというのは心を消耗させる過ごし方なのだ。たぶん。

こうして何が自分にとって快楽・やりがいなどの幸福を感じさせる(失わせる)行動なのか、を数値化すると自分自身が理解できてくる。例えば自分は活動がもたらす幸福をあまり予想できていないことや、ネットサーフィンやマルチタスクは思ったよりも自分を不幸にしているということだ。この自覚は、イヤイヤではなく、幸福をもたらす行動を自然に増やすためのモチベーションになる。

実際、ここ1週間はそれほど思い悩むこともなく過ごすことができた。ただ、その期間には気温が上がったり運動したりと他の要因にも変化が起こっている。計画表の効果をより明らかにするためにも、当分は続けていきたい。

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上の効果については途中で小出ししてきたが、思わぬ効果としては、家を掃除できるようになったというものがある。空き缶や毛、ホコリが目につくのだ。ある休日に一気にキレイにしたが、目に入るものが少なくなると気分も落ち着いてくる。

仕事でも、あまり頭を使わないはずの事務仕事に費やす時間が減った気がする。というか、何をしていいか分からないほど疲れる前に一度離脱し、休憩して全体を眺めなおせるようになった。つまり、俯瞰して優先付けをする能力が上がったらしい。事務仕事の能率はあまり視覚化できていないが、家の汚さと同レベルのことが仕事でも生じていたと思うとおそろしい…。

久しぶりに生活改善がうまくいっているので、ぜひともこの流れを続けたい。それと並行して、「成果を上げなきゃ人に好かれない、人に好かれなければ孤独で不幸になる」という思考を少しずつ修正していこう。

失ってなかった。 〜嫌われることへの不安とネット依存〜

以前書いたこの記事

tawashan.hatenablog.com

だけど、ここ数日間は相手からもこちらからも互いに話しかけ、楽しく会話することができた。これまで何度も、人に嫌われないかと心配した挙げ句、全くの杞憂だったということがある。それにも関わらず毎回不安になるのはなぜだろうか。

一見、過去に「人に嫌われないか心配になったとき、実際には嫌われていなかった」という経験を繰り返すほど、「次に人に嫌われる確率は低いのだから心配する必要はないはずだ」と考えそうなものである。実際、認知行動療法をする場合に自動思考(一次的な思考)に対する反論をするならば、このように書くと思う。ところが、他人から冷たい(とも受け取れる)態度があった場合には、毎回一発目の自動思考のレベルからその不安が消えることはなく、なんとか心を平静に保ちたいという葛藤が始まる。これは、「本当に嫌われる確率」ではなく「嫌われる不安への対処」のまずさが原因なのだろうと思う。

マインドフルネス認知療法においては、一般的な問題解決を行う際の心の動きを「すること」モードと呼び、心が「いま、そこ」にあって何かを変えようと意図しない状態である「あること」モードと区別する。「すること」モードでは思考した内容を現実のこととして認知することで問題解決の遂行を助けるが、これは感情的な問題には役立たないとされる。不安に対しああでもないこうでもないと否定することで、余計にその架空の物事へ引きずり込まれてしまった経験のある人もいるだろう。

「すること」モードによる否定の他に不安を悪化させるのは、不安を解消する真の効果はないが短期的には快楽を得られる、ニセの対処法に頼ることだ。僕の場合で言えば、嫌われないか心配で仕方なくなった夜はたいてい、ネットサーフィンを1−2時間してしまう。クリックし続ける間、不安が心から消えた気になるが、ふとまた首をもたげてきてクリックを続ける、というサイクルを繰り返し、終わった頃には疲労と罪悪感が残る。

では正しい「嫌われる不安への対処」を実行し、一発目の自動思考から不安を消し去るにはどうしたらよいかと言えば、認知行動療法やマインドフルネスなどで自分の自動思考を修正したり、客観視できるように何度も訓練するしかないのだろう。ともあれ、それとは別に「自分は嫌われやすい人間ではない」という自信は持ってもよいのだろう。そして、淡々とミスを減らす対策を行っていこう。

また一人、失う。

今日もまたミスをした。というより、他の人に助けてもらって未然に防いだと言うのが正しい。最近は、信頼できる同僚であり友人であった人からの視線が冷たいような気がする。そして、ミスをすること自体よりもそちらを気にしている自分に、嫌気が差す。

今回の現場は、ある仕事をしているときに側で話しかけられ、また別の方向から優先度の高い仕事を振られ、となったときだった。自分のキャパシティが小さいことは重々承知なので、それぞれの人にちょっと待って、とストップさせながら一つずつこなしていこうとはしている。それでも、どうしようもない。今そこにあるミスに気づくことができない。または、あたふたしている間に先に他の人に気づかれ、指摘を受けることになる。結局自分のミスを減らしてもらっていることにはなるので、救いと言えば救いなのかもしれない。

本当にひどいのはここからで、普段は意識には上げていない心の声が口に出ていたのだった。「おもしろくない…」と。他の人に聴こえていたかはわからない。自分でもゾッとする話だが、失敗をした人が同日にこんなことを口走っていたら、人格を疑われさえするかもしれない。とここまで書いて、やはり、僕は仕事のクオリティよりも他人からの印象を気にしているのだ、と嫌でも自覚させられる。

ここ1週間くらいはそんなことが続き、僕に対してずっと好意的だった同僚の顔が強張り、また話しかけてくる頻度が少なくなったようにも感じる。僕がどこのコミュニティで人間関係を作るときにも、まず人と仲良くなり、しかし会話のまずさやミスの多さからギクシャクしたり嫌われ、その後技量の向上と人格の理解からまた仲良くなる、という経過を辿る。しかし、最初から中長期的に仲が良くて、途中から幻滅されるパターンはそう多くないだけに、今回は胸が痛い。

失敗をしようが嫌われようが、自分なりに少しずつ改善していくしかない、していけば状況は良くなってくる、とは経験で分かっている。それでも、今日は帰ってから信頼を失う恐怖ばかり頭を離れず、床の上で逃げるようにネットサーフィンをしてしまい、それでまた自己嫌悪に陥る、というループにはまり込んでしまった。もうこんなマネはしたくないが、それもまた自分の現実と認めて、明日もやっていくしかないのだ。

つながりを得られる場所を探して

仕事場で、ふと周りに目をやり、ため息を漏らす。この仕事を初めて以来、朝から晩まで他人と狭い空間に詰め込まれ、常にコミュニケーションを強いられている。疲れの溜まり方は段違いだし、いつも息が詰まるような気さえする。

今の職場に来るまでは、人と同じ空間にいるとはいえ会話の必要はなく、皆思い思いに動き回っているような環境だった。それと比べると、まず単純に人口密度が高い。すると、動きが交差する頻度も高くなるので、立っているだけで邪魔にならないか気を配らなければならない。それだけでなく、どうしても他人の動きが視界に入ってきて集中力が削がれる。

いちばん困るのは、作業を共有しなくてはいけないことだ。断っておくと、各人に割り振られた仕事を持ち寄ってミーティングし、すり合わせをする、というように他者とコラボレートするのは嫌いじゃない。ゆるい作業の共有には、自分の意思が入り込む余地がある。その一方で、現在の職場のようにリアルタイムで作業を共有する場合には、結果が出せば許されるわけじゃなく、プロセスまで共有される必要がある。それを規制する決まりが法律だけならよいけれど、会社独自のルール、部署独自のルール、個々人のルール…と、ある。そのうち、結果を出すために絶対的に守る必要のある決まりというのは、多くはない。むしろ、一つの文化としてなんとなく決まっているのだ。そして、こういう必然性のない決まりほどやる気を削ぐものはない。僕は「結果を出せばプロセスはどうあれ認められる」世界を去る決心をしたのだから、文句はいえないのだけれど。

ここで自分の性質に目を向けると、僕はマルチタスクが苦手である。一つのことに集中して、飽きたらまた別のことに集中して、というのが好きだ。だから、上のように作業をリアルタイムで他人と共有して、仕事を進めなくちゃならない環境では、とても疲れる。のめり込めば周りとの連携が取れなくなるし、他人に気を配れば手元の仕事がおぼつかなくなる。いつまで経ってもギアが上がらない。その疲労が貯まってくるとミスも増えてくる。…という悪循環になる。

そんな状態で余裕がなく、また他人に目を向けるのが億劫なものだから、狭い空間でいつも自分に他人の感情が流れ込んでくるような環境や、言葉を介さずわかるよね?といったテキパキ、ツーカーが求められる環境は正直言って勘弁してもらいたいとも思っている。打ち合わせするように、目的と理由、手段と要望を口で言え、と思ってしまう。

とはいえ(都合のいいことに)、こんな僕でも、相手へ完全に意図が伝わったときは嬉しい。自分のやりたいことを相手が把握してお膳立てしてくれるときや、逆に相手の意図が手に取るように分かり、効果的なヘルプを出せるときには、ツーカーっていいよな、とも思ってしまう。

きっと、普段「他人はどうせ自分を理解できないだろう、それならひとりがいい」と思っている自分は、本当はひとりがよいのではなく、つながりがほしいだけで、そうでなければただ疲れるからひとりの方を選んでいるのだと思う。

現在の職場にいるとつながりが得られない、と特に感じるのは、仕事のスピード感に起因する問題なのだろう。腰を落ち着けてやるミーティングでは、言葉だけでなく文字や図を使って自分の意思を伝える方法がある。ところが、リアルタイムで動く仕事では、自然、言葉を省いて一を聞いて十を知るというコミュニケーションになりがちだ。そして、他人を見る余裕がない人は、言外の情報を補うことができない。長く同じ職場、同じメンバーと働いていれば少しずつ改善してくるものではあるのだけれど…。

共同作業が必要な環境に身を置くのは、確かに、自分の苦手なスキルを伸ばすという意味では僕には有意義な経験だった。しかし、「そろそろもういいだろう、自分に合った環境を、居場所を、見つけたい」と思わずにはいられない。いつかそういう場所に身をおければいい。いや、身をおければいいなんて他人まかせの言葉じゃなく、身をおくんだ、と書いておこう。

人の心を読みすぎる人

働き始めてから、人の心を読みすぎる人、というのは案外多いんだなあと感じるようになった。「読みすぎる」というのは「読めすぎている」のとは違う。ありもしない心を読もうとするのである。それを極めたところでは、以前の職場で、「人のやりたいことを先読みしてやってあげることが好き」という人がいた。自分のことに一杯一杯で周りの様子が見えていない僕からすれば、なんて優しい人なんだろうと思う。

ところが、人の心は完全に読めるわけではない。人は、行動から相手の心=意図を読み、その事例を蓄積して意図と行動のパターン=性格を自分の中に印象作る。問題は、まず行動から意図を正確に読めるわけではないということ、そしてその理由の一つでもあるのだが、行動と意図は一対一対応ではなく、人によってヴァリエーションがあるということだ。それを踏まえると、多種多少な顧客をターゲットにするサービス業であれば、多くの人の思考回路に沿って相手の考えていることを読む、というのは正しい戦略だろうと思う。とはいえ、多数派の公式が当てはまらない人に当たるケースは少なからず存在するはずだ。

困ったことに、そういったとき、人の要望を先回りしてやってあげたいと考えている人たちは結構な割合で"怒る"のである。僕なんかは、目的が決まったら視野が狭まって猪突猛進もするし、笑いや怒りのツボも人と違うので、心を読みづらいことこの上ないのだろう。彼らのお叱りをまともに喰らうこともしばしばだ。

例えば、書類をふと置いておくと、勝手に印鑑を捺すものだと思った彼らに処理されてしまう。もちろん目を離す僕も悪いのだが、放っておいたものを指示されていると思って取っていかなくても、と思う。

特に彼らを苛立たせるのは、彼らができることを僕が自身でやってしまうことらしい。例えば、宛先・封筒のサイズ・中身が全て違う書類を郵送するとき、いちいち指示するのはとても面倒くさい。全て揃えて自分でやってしまった方が、時間も手間もかからない。それを「私がやるので置いといてください」と苛立ち気味に言われる。

その度僕は、「あれ?僕がやりたいことをやってくれるんじゃないの?」と、不思議に思う。僕が彼らにやってほしいことは、何もしないことである、ということもあるのだ。だから、その度、行動の意図を説明する。「ありがとう、しかし僕はこうしたいからこう動いているんだ、もしあなたにやってもらいたいことがあれば指示する」と。

しかし、彼らはそれで納得しない。いかにも不服そうである。こういうことが何回も続くので、僕も「他の人がどう考えているときにどう行動すると彼らが考えるか」を逆算して行動するようになる。これはたいへんに疲れる。相手は少なくとも主観的には親切にしてくれているはずが、逆に縛られている気分になってくる。

彼らは、場所や相手によってはテキパキとした"デキる"人なんだろう。仕事を奪わないで、という問題でもあるのだと思う。それにしても、違う思考回路の人を想定しないやり方は、長い目で見てサービス業としても良くないんじゃないだろうか*1。僕みたいな人や、もっとぶっ飛んだ人がもし顧客だったら、その人を切り捨てることになりはしないか?と、ふと不安になるのである。

*1:本来僕のような同業者への対応と顧客対応は別であるべきと思うが、実際僕の周囲の人たちはあまりその区別がついていないようで、同じ方法論のコミュニケーションを取ろうとしているように見える。

睡眠不足(となにか)で人生が破滅しかけた話

  • ことの顛末
    • 分かっていてもなかなかできない「よく寝ましょう」
    • 破綻するまでの生活
    • 日曜の朝から晩までパソコンの前で呻きながら過ごす
  • 睡眠不足の影響
    • 単純作業効率の低下と全体性が捉えられなくなること、面倒くさくなること
    • 生活がコントロールできなくなる
    • 仕事ができなくなる
    • 人間関係が悪くなる
    • 経験を活かせなくなる
    • 結局、どうすればよいのか

 

ことの顛末

分かっていてもなかなかできない「よく寝ましょう」

 睡眠は大事なものだ、という考えは広く知られているが、骨身に沁みるほどわかっているかと言われたらそうではない、という人が多いのではないだろうか。むしろ、大抵の場合は自己コントロールがある程度効いていてそこまでに至らないだろう。何事も「知識として持っている」こと、「体験として理解していること」、「実践できること」には大いに差がある。うまくいっている間は最初の2つができなくとも実践はできる。例えば、小さい頃からの習慣付け、早寝早起きがしっかり身についている場合だ。その習慣という名のレールから外れたとき自力でグイッと戻る力が比較的弱い人には幸か不幸か、2つめの段階を味わう機会が与えられる。あまりに当たり前の、「よく寝ましょう」がやっとできるようになってきたという話。

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